横浜開港150周年を記念して、山口会長が母校の卒業式3月3日に卒業生に配付されるされ
文芸誌「花橘」に「横浜道」について寄稿したものをHPに掲載します。

 

     真澄会会長  山 口 精 一

  港への近道

今年は、横浜開港150周年である。1859年7月1

日(安政6年6月2
日)、半農半漁100戸余の横浜村(現・

中区本町、山下町付近)に港が開かれ
た。開港記念日につ

いては、新暦か旧暦かでいろいろ議論があったようだが、

今は旧暦の「6月2日」で落ち着いている。

 開港の前年、徳川幕府はアメリカと「日米修好通商条約」

を締結したのをは
じめとして、イギリス、フランス、オラ

ンダ、ロシアとそれぞれ条約を結び、
箱館・新潟・神奈川・

兵庫・長崎の開港を約束した。

 神奈川については、当初神奈川宿(現・神奈川区神奈川

本町付近)に開港が
予定されていたが、東海道と接してい

るためトラブルを恐れ、幕府は「横浜村
も神奈川の一部だ」

として強引に横浜村の開港を決定してしまう。

 ところで、300年ほど前までは、神奈川と戸部の間は

保土ヶ谷まで内海と
なっていて、「袖ヶ浦」(ソデガウラ)と呼ばれる風光

明媚な入り江であった。従っ
て神奈川から戸部や野毛方面

に行くには、渡船を使うか保土ヶ谷を迂回して行
くしかな

く、きわめて不便であった。

 開港の頃は、以前からの新田開発によって「岡野新田」

や「平沼新田」がほ
ぼ完成していたが、東海道と横浜の港

を最短距離で結ぶ道が必要となり、開港
直前わずか3ヵ月

足らずの突貫工事で新田の突端に土堤を築き、橋を架け、

を削ってできた近道が「横浜道」である。

 

浅間下〜戸部

 では、これから「横浜道」を歩いてみよう。「横浜道」の

旧東海道からの分岐
点は、浅間下交差点(西区浅間町一丁

目)近くにある。交差点の横浜駅寄りの
角に薬局があり、

案内板が設置されている。その脇に細い道路が数十メート

続いている。筆者が子どもの頃は「しんみち(新道)」と

呼ばれていた。「横浜
道」の名残りである。この道路には、

「横浜道」と刻まれたプレートが埋め込ま
れている。

 少し進んで一つ目の橋「新田間橋」を渡る。弘化(コウカ)新田と

岡野新
田の間を結んだ橋「あらたまばし」と読む。何とも

云い得て妙ではないか。

 岡野町を通り、平沼陸橋の右脇を平沼高校を臨みながら

進むと、二つ目の橋
「平沼橋(現・元平沼橋)」にぶつかる。

目の前をJRと相鉄の電車が走る。明
治・大正時代この近

くに国鉄「平沼駅」があった。奇しくも母校開校と同じ年


に生れた駅で、現在の校名と関係の深い駅である。

 陸橋を渡り平沼商店街に入る。かつての平沼新田だ。新

田といっても稲作な
どではなく海水を使った塩田がほとん

どだったという。やがて京浜急行のガー
ドをくぐる。ここ

には戦前「京急平沼駅」があった。今でも若干の残骸をと

めている。

 商店街を抜けると、三つ目の橋「石崎橋(現・敷島橋)」

に出る。「石崎橋」
の名は一つ上流の橋に移されているが、

こちらが正真正銘の「石崎橋」、元に戻してほしいものだ。

 国道1号線を横断すると、江戸時代神奈川の対岸だった

戸部に着く。ここま
でが土堤を築いて作った近道だ。振り

返って浅間下方面を眺めると、ほぼ一直
線に作られている

ことが良く分かる。

 

   戸部〜野毛山

 ここからが「戸部通り」。だらだら坂をゆっくり上る。亀

田病院を過ぎ、少し
行くと左に「岩亀(ガンキ)横丁」がある。

 開港後、港崎(ミヨサキ)(現・横浜公園)にできた遊郭街に「岩亀

楼」という大
楼閣があり、その後高島町に移転したが、遊女

たちの静養する寮がここにあったので
「岩亀横丁」と呼ば

れるようになったという。また、この横丁の中ほどに
は、

彼女たちが病気治癒のため参詣したという「岩亀稲荷」が

祀られている。

 「戸部通り」に戻り坂を上ると、左手に「掃部(カモン)山」が見

えてくる。山頂
には開港に踏み切った大老井伊掃部守直弼

(タイロウ.イイカモンノカミ.ナオスケ)の銅像が横浜
港を見下ろしている。旧彦根藩の有志が井伊

大老を顕彰して建立したものだ。
戦時中に金属回収で撤去

されたが、昭和29(1954)年に復元された。

 坂を上りきると、「野毛切通し」(西区戸部一丁目交差点)

にたどりつく。「保
土ヶ谷道」がこの近くで合流していた。

左折すれば「神奈川奉行所跡(現・県
立青少年センター)」

に出る。ここは「戸部役所」と呼ばれ司法、行政の事務を


取り扱った。また、今の神奈川県庁の所に「運上所」を設

け関税や外務全般の
事務を行っていた。

 ところで、「野毛切通し」は野毛山を切り崩して作った文

字通りの切通しであ
る。かつては細い山道しかなかった所

だ。奉行所跡から戻り伊勢山皇大神宮の
丘を左にして切通

しを下りていくと、右に野毛山公園入口がある。野毛山に

原善三郎、茂木惣兵衛(ソウベエ)、平沼専蔵らの邸宅があり、山手

の外人住宅地に
対して横浜財界人の高級住宅地であった。

また、ここには津久井の道志川から
鉄の水道管を使って横

浜まで水を引いた近代水道の父、英人パーマーの胸像が


水池の近くにある。

 

  野毛〜吉田橋関門

 さて、公園入口の正面、切通しを直角に左折した道路が

いよいよ港に向かう
横浜道である。

急な下り坂を直進すると野毛の繁華街に出る。この辺り

一帯は、終戦後闇市
で賑わっていた。どこでどうしたのか

チョコレート、チューインガム、タバコ、
ウイスキーなど

など、米軍の豊富な物資が出回っていた。

それはともかく、大岡川に架かる「野毛橋(現・都橋)」



を渡り、伊勢佐木町
通りの入口「吉田橋」に到達する。



 
開港当初、吉田橋には関門が設けられ、馬車道側は「関内(カンナイ)」、



伊勢佐木
町側は「関外(カンガイ)」と呼ばれていた。



 ここまでが横浜道で、関門を抜けるとそこは異国人が居




留する横浜という別
天地であった。

かくして、横浜道を歩き終わったが、浅間下交差点から



吉田橋までは約4キ
ロの道程、2時間はみてほしい。



一世紀半前の面影を偲びながら「横浜道」を歩いてみて



はいかが。


浮世絵「よこはまみち」五雲亭貞秀 画 万延元年(1860)