三度目の平沼 -1-/真澄会会長(当時) 鈴木宏司(59期)

三度目の平沼

真澄会会長 鈴木 宏司

  三度横浜平沼高校にお世話になることになった。生徒として、教員として、真澄会としてである。平沼での生活の中で印象に残っていることを思い出すままに記してみたい。50年ほど前の生徒時代は記憶が定かでないので、教員時代(昭和58.4~平成2.3)のことを二点書いてみる。



(1)  増田庸光君のこと

  彼は私と歳がひとつしか違わないのであるが、私が平沼の先輩であることは間違いないので、増田庸光君と呼ばせてもらおう。彼は平沼高校女子バスケットボール部の名コーチであった。教師ではないが素晴らしい教育者であった。過去形にしたのは49歳の若さでこの世を去ってしまったからである。
  長らく顧問をされていた大山制洋先生が転勤となり、私と安斎先生(現県立体育センター所長)が後を継ぐことになったのが彼との出会いである(生徒時代は面識がなかった)。豪放磊落に見える外見と、高校時代からのいくつかの武勇伝と、そしてお酒をこよなく愛し過ぎたために損をしている部分があったが、私が顧問となった頃には彼も40代になり、人柄も指導力も円熟期を迎え、それらの事もひとつのエピソードとして笑って済ますことのできる時期になっていた。
  増田君の人柄を偲び、指導者としての功績を称える追悼文集が平沼高校バスケットボール部後援会のOB、OGによって作られている。「 もげ ~故増田庸光君を偲んで~ 」というタイトルである。もげは彼のニックネームである。多くの関係者によって書かれている追悼文には数々のエピソードが紹介されており、それらは彼の人柄と卓越した指導力を如実に表している。後半部分には「増田さんノート」が掲載されている。尊敬する先達者の理論を基に、自分の経験から得た考えや理論を加味して、増田君が作り上げたノートがある。追悼文集を作成するのを契機に後輩達がそのノートを編集して纏め直したものである。それは正にバスケットの理論書である。技術面、戦術面だけの本ならば多数出版されているが、精神面の部分をこれほど具体的に的確に書き記しているものはあまり見たことがない。名著である。練習の終わった後、ノートを食い入るように読んでいた新入部員達の姿を思い出す。現在、県立高校の教員となってバスケットを指導している彼の教え子曰く、「今でも使わせてもらっています。部員達にインパクトのある話をしたいと思う時は大変参考になるんです」。増田君よ、以って瞑すべしですね。増田君がコーチをしていた時代の主な戦績を載せてみた。見事の一言である。

●新人戦[1971年(昭和46年)から開催]
   1974年(昭和49年) 県大会 優勝
1988年(昭和63年)  〃   3位
●関東大会
1965年(昭和40年) 県大会 5位 で関東大会出場
1966年(昭和41年) 4位
1967年(昭和42年) 4位
1968年(昭和43年) 優勝
1969年(昭和44年) 2位
1970年(昭和45年) 〃  優勝 ※関東大会 Aブロック 3位
1971年(昭和46年) 3位
1972年(昭和47年) 4位 ※関東大会 Bブロック 優勝
1974年(昭和49年) 2位
1975年(昭和50年) 1位
1980年(昭和55年) 2位
1982年(昭和57年) 優勝
1983年(昭和58年) 4位 ※関東大会 Bブロック 優勝
1988年(昭和63年) 3位
●高校総体(インターハイ)
1967年(昭和42年) 県大会 3位
1968年(昭和43年) 優勝 で全国大会出場 ※全国大会 2回戦進出
1969年(昭和44年) 3位
1970年(昭和45年) 優勝 で全国大会出場 ※全国大会 ベスト16
1974年(昭和49年) 2位 ※全国大会 ベスト16
1975年(昭和50年) 2位 ※全国大会 2回戦進出
1978年(昭和53年) 3位

  彼は50を待たずに逝ってしまった。酒が過ぎたのかも知れぬ。練習や試合を終えての帰路、酒を飲み交わしながら、部員のこと、その日の練習や試合のこと、そして平沼高校のこと等を大いに語り合ったものである。お子さんの話をする時の増田君の嬉しそうな顔を忘れることができない。僅か二年間の付き合いであったが、彼には多くのことを学ばせてもらった。感謝するのみである。



(2)  旧校舎(二代目校舎)のこと

  旧校舎は1923(大正12)年9月の関東大震災で初代校舎が倒壊した後、5年の歳月をかけて造られたものである。大震災の後ということで強靭で堅固なものを目指して建てられたのであろう。かつて、五神元会長から伺った話では、旧校舎解体に携わった人が「鉄筋が数多くびっしりと使われていた。半端じゃない強さで壊すのが大変であった。」とこぼしていたそうである。また、基礎部分の土中からは、これも半端でない数の松の杭が出てきたそうで、「確か"浮き船式工法"とか仰っていたような気がします。」とのお話であった。"浮き船式工法"とは何ぞや?長いこと気になっていたのである。
  この原稿を書くにあたり、真澄会の先輩を介して「高校百校新設計画」に携わった専門家の方にお伺いしたところ、「それは浮き船式ではなく、"群杭(摩擦杭)による浮き基礎工法"というものです。」とのことであった。建築学用語辞典(岩波、丸善)によると、
  群杭:2本以上の杭が一群となって構造物の荷重を支持している場合の杭。
  摩擦杭:軟弱な土壌において杭の周辺摩擦力にその支持力を期待する杭。しっかりした土壌(岩盤)の上に打つ支持杭と区別する用語。
  浮き基礎:基礎構築のために掘削する土の重量と建物荷重との均衡をはかることにより、軟弱な地盤での構造物の安定をはかる基礎形式(浮力の原理ということか?)。摩擦杭や地盤改良を併用することが多い。

  これは当時としては大いに工夫が施された工法であったと想像できる。その頃の文献には「深キ所マデ軟ナル地質ニ対シ、最モ有効ナル基礎工法ヲ杭打チトナス、基礎ガ水位線以下ニアル場合ニハ杭ニ木材ヲ用ヒ得ベク・・・」とか「・・・基礎を浮遊性、絶縁性、固定性の三つに分たれ・・・巨大なる規模の建物に対しては浮遊性を可なりとして・・・」なる箇所が散見できる(日本科学技術史体系の17建築技術(第一法規出版社)より)。
  以上であるが、気になっていた所が少し分かったと自己満足している。また、ベネチアの建造物の基礎もこの工法が取り入れられているのではないかと思ったりしている。
  さて、生徒時代の校舎であるが、教室の床は木であり、廊下はがっちりしたタイルで敷き詰められていた。そして、窓は確か観音開きであった?と記憶している。20年振りに教員として戻った時には、廊下はPタイルに、そして窓はごく一般的な形のものになってはいたが、温もりのある木の床はそのままであった。校舎と再開してみて生徒時代にはあまり感じなかった建物全体の重厚さ、格調の高さを感得できたような気がした。築60年以上になり、いろいろな箇所で不具合が生じていたがそれも愛嬌と思ったものである。職業柄、他県の伝統校の校舎をいくつか見てきたが、旧校舎はそれらに決してひけをとるものではないと思っている。最近は真澄会員の方とお会いする機会が増えたが、必ず出てくる言葉が、"古い校舎が懐かしい。無くなって寂しい。"である。故郷を失ってしまった感じなのであろうか。教師が生徒を育てることは勿論であるが、校舎もまた立派に生徒を育んでいると思われる。今の新しい校舎に学んでいる後輩達がこの三代目校舎に深い愛着の念を持つことを期待して止まない。



  以上である。旧校舎が無くなると共に転勤で去ったのであるが、それから約20年後の昨年、真澄会の仕事で再び平沼に戻って来た。故石川浩校長の下、案段階での設計図を前に多少とも意見を述べさせてもらったこの新校舎で、後輩達の活躍振りを身近に拝見できることを大変嬉しく思っている。

「花橘 第61号2010年度」

2021年03月02日|公開:公開