ぢーぢが孫娘に語る「六十年前の平高生は」/真澄会理事(当時) 地代所達也(59期)

ぢーぢが孫娘に語る


    「六十年前の平高生は」


  真澄会理事    地代所  達也(59期)



 中学ではそろそろ「進路指導」の頃だね、高校ってどんなところなんだろう。
 ぢーぢの平沼高校時代のことを話してみようか、大昔のはなしだから、今とは随分違うけれど。
 1959年3月13日が合格発表日、ちょうど15歳の誕生日だった、今でもはっきり覚えているよ。同級生と、平沼高校の門をくぐると、沢山の中学生が発表を見ていた、掲示板には合格者456目の名前が貼りだされていた。岡野中学の同級生600名から合格者は39名、次の日の新聞には「合格者氏名」が載ったんだ。その場をそっと離れるクラスメイトには声をかけられなかった。ぢーぢは、その日に受付が締め切られる法政二高の願書を握りしめていた。そのころの「小学区制」では、公立普通科は平沼しか受けられなかったから、入試は結構大変だった。
 高校進学率60%、同学年の子どもの数は今の2倍、県立高校数も今の4分の1だから学力幅も大きかった。
 合格者は、ア・テストで県下最高点の396点~280点ぐらいと聞いている。今の偏差値でいえば75~60ぐらいだろうね。ア・テストはね、中学で行われる県一斉テストのこと、英語を除く8教科で400点満点、事実上の高校入試だった。
 いよいよ高校生活が始まった。坊主頭で入学したぢーぢは、応援団の先輩たちの手荒い歓迎を受けた。昼休み・放課後は、否応なく翠嵐との対抗戦「平翠戦」に向けた応援練習に駆り出されたんだ、ちょっと怖かった。フォークダンスって知ってる?オクラホマミキサーで女子の手と触れ合うのが、恥ずかしかった。「第一高女」平沼では、とにかく女子の存在感が圧倒的だったね。フォークダンスで手を出せずにモジモジしていると、先輩に「あなた、なにやってるの!」って叱られた。校舎内には男子WCが無くて、外に生徒会長の名前がついた男子WCがあったんだよ。
 授業ではね、宿題のGettysburg Addressを難なく暗記してくる女子に気後れがして、優等生せっちゃんの背中にかくれていた。ムメちゃん先生は「女子の平均点は、いつも10点以上高いのよね」と、チラッと視線を男子に向けてきた。数学には自信があったんだ、でもこの自信が後にあだになる、過信は禁物だね。平沼では珍しく男女同数の学年、三年を通じて男女別の単独クラスはつくられなかった。入試合格点に男女差があったとのうわさがあったけど「そうなんだろうな」とみんな思っていた、授業中の実感でね。若かったキャベツ先生は、後に「平沼の女子はみんな輝いていましたよ」とお話しされていた。
 ほとんどの先生は“あだ名”で呼ばれていた、親しみを込めて。ヒラメ・オケラ・ベロ・めんちゃん・サムちゃん・リッちゃん・ブーさん……。語源学に裏付けられたガンさんの英語、格式の高いブンヤの世界史、数々の名物授業があった。ぢーぢにとっては、2年「オオモリさんの物理」がもっとも衝撃、後の進路を決めることにもなった。教科書を使わない、演習の時間はない、3年になってから習うはずの微積分から始める物理の授業は、大学教養レベルといわれていた。今の公立高校ではとても考えられないけれど、刺激的でわくわくする授業だった。
 テストは大問が3~4題、平均点は10点台、50点以上は2人、という難しさだった。採点は直ぐに終わっててね、研究室まで答案を受け取りに行くんだ、初めて10点台を貰った時には冷や汗がでた。それでもめげないで、毎日のように研究室に押しかけ質問をしたんだ、面白かったんだね。
 平沼での教育実習でもオオモリ先生の教えを受け、同業に就いてからじわじわと先生の狙いがわかるようになってきた。「本質の理解が王道」を繰り返し説かれていたんだと思う。速度や加速度は、微積分やベクトルで定義されている、そこが解っていないと本質には届かないんだ。速さの単位〔m/s〕さえしっかりおさえておけば、“きはじ”の公式に頼る必要はない、ってぢーぢが教えたでしょ。中学受験の定番「つるかめ算」も同じだね、方程式が使えればさほどの難問にはならない、クイズ問題としては面白いけれどね……。段階を踏んで理解を進めていくのは大事だけれど、本質をおろそかにして暗記に頼ったりすると勉強が面白くなくなってしまう。そこを教えて下さったんだね、学究肌で少々お酒に弱い先生には、公私ともに生涯お世話になることになった。何事にも裏表があって、「オオモリの物理」で初めて屈辱感を味わった“優等生”の中には反感をもつ人もあったようだね。初めてお目にかかったころのオオモリさんは、理科室の奥にいる丸メガネの年配の先生という印象だった。それが修学旅行の時には、颯爽とした青年に変身、直前に結婚されたんだね。人は環境で変わるものなんだ。
 修学旅行は6泊7日、長旅でしょ、普通列車全車両を借り切っての往復。車中泊だけど寝台車じゃないんだよ、30時間も固い座席に座っていた、強行軍だったよ。行程は、

 1960年11月18日 6:50横浜駅発(車中泊:3食駅弁)
 19日:別府着、高崎山・地獄見学(別府泊)
 20日:阿蘇見学(熊本泊)
 21日:熊本城・水前寺公園見学(雲仙泊)
 22日:長崎市内見学(長崎泊)
 23日:長崎自由行動(午前)  長崎駅発(車中泊:弁当食3回)
 11月24日 21:54横浜駅着 

  行動班はクラスを超えた自由編成、ぢーぢはどの班にも入り損ねて、知らないうちに組長に指名されていたんだ。でも旅では様々な発見があり楽しかったよ。残念ながらロマンスは生まれなかったけれどね、この時に良くカップルができるんだ。
 オオモリさんが担任の3年では、11月に新設された理科芸術棟3階に私たちのクラスだけが幽閉?され、学校に不満をぶつけたものだった。隣でうるさい音を出す音楽科のカズオ先生と怒鳴り合ったり、移動に不便だったりしたが、選択授業で別々になるクラスの結束がかえって強まったようにも思うね。在学中一度だけの文化祭は、創立60周年記念だったがほとんど記憶が無い。毎年あった運動会は四季別になったり学年別になったりした。仮装行列がメインイベントで大いに盛り上がった、遅くなって「花菱」のラーメンを教室に出前したのも思い出深いね。各組の応援壁画づくりでは校内に泊まり込む人もいた、それもこれも先生たちは見て見ぬふりをしていたよ。
 1960年の頃は世の中がザワザワしていてね、そんな空気が教育の場にもおよんで、平沼にも少ながらず影を落としていたんだ。先生たちの大がかりな人事異動、平沼時報の空白発行事件、校外での生徒の政治デモ参加や警察案件が問題になった。当時の香川校長は「思い出したくもない」と記念誌で発言されている。
 60年前の「平沼高校」ってどう思った?いろいろあったけれど、充実して楽しい毎日だったし、今も続くたくさんの友達ができた3年間だったんだ。ママの平沼高校時代も聞いてみると面白いかもね、随分違うと思うよ。パパの高校時代はどうだったのかな?友達といろんな学校の文化祭に行って見るといいよ、どこが自分に合いそうかなってね。あなたの高校時代がどうなるのか、楽しみだね。

「花橘  第69号2018年度」

2021年05月18日|公開:公開