1901年(明治34年)5月5日に開校して以来、本校には15年もの長い間効果と言うものがなかった。「開校式の歌」がその代わりをしていたと言うのは、前述した通りである。
校歌が制定されたのは、1916年(大正5年)11月3日のことである。立太子礼奉賀式(後の昭和天皇が正式に皇太子になった式典)の記念事業の一つとして制定された
作詞は明治の代表的歌人である文学博士の佐佐木信綱、作曲は、文豪幸田露伴の妹で、文部省の音楽取調係掛(東京芸大の前身)出身の幸田延にそれぞれ依頼した。
ちなみに滝廉太郎は幸田延の弟子であり、「荒城の月」の冒頭二小節には、調違うものの校歌のそれと同じものである。
校歌制定当時の学校長相沢澤英次郎は、「美的思想養成に関して博士に注文したので優美にできていると思う」と語っている(創立三十周年記念式典における演説より)
また、本校第二期生であり、制定当時音楽の教員であった末木美衛(旧姓、神谷)教諭が語るところによると、
前に作曲をお願いしてあったので、幸田先生のお宅にいただきに上がりました。早速聞かせていただいた曲は、第一の歌詞と第二の歌詞の間に立派な間奏曲を作曲され、歌の部分も間奏の部分もコーラスやオーケストラで演奏される大曲でした。しかし、先生は中等学校で歌うのだからとやさしい方の曲を下さいました。これも第一の曲は、おごかに立派に、第二の歌は、明るく勇ましく、それぞれの歌の心を充分表した立派の曲でした。(「70周年記念誌」)
毎週水曜日の朝礼の際全校生徒の歌う校歌は、月曜に朗読する「心の則」と共に本校教育伝統を培う上の双璧であったとされており、二代目校舎の講堂には、作者佐佐木信綱が揮毫した校歌の扁額が飾られてあった。なお、現在の校歌は1950年
(昭和25年)に原作者佐佐木信綱氏に依頼し、歌詞の一部が変更されている。蛇足ながら、現在の校歌を記しておく。