写真は、2017年夏、保土ヶ谷球場の試合です。
CAPTAIN ― キャプテン ―
真澄会副会長 三田 芳弘(54期)
夏の日の横浜平和球場。早い午後の陽射しが眩しく、汗と興奮をとかして気だるく身体を通り抜ける。拮抗しているゲーム中盤になり、好投を続けるエースピッチャーにピンチが襲う。今はワンアウト。サードベース上にランナーがいる。キャプテンのショートと1年生のサード2人がともに前進守備をしている。ピッチングが1回2回と行われてゆくなか、バッターがバントの構えをした。サードが素早く前へ走る。あっ、バスター。彼は左に跳ぶ。ボールがグラブを弾いてショートの前へ。
夏が終わった。
1955年(昭和30年)神奈川県で秋の国民体育大会が開催される事になっていた。平沼高校の体育館で体操競技、校庭でソフトボールのゲームの一部が行われる事になっていた。その為、校庭の土の入れ替え等のグラウンド整備工事が秋の初めから大規模に行われた。
秋は、我々球児の1・2年生による新人戦のシーズンだ。練習するグラウンドが無い。ナインに部員がとどかない。このままでは、公式試合は勿論練習試合も出来ない。新キャプテンは大きな問題を抱えた。彼は、野球をやった事がある同級生を説得して回った。そうして、多い時には3人の助っ人を得て試合が出来た。そしてグラウンドは、或る人が保土ヶ谷球場を借りて下さって練習する事が出来た。エースピッチャーが、県下屈指の剛腕好投手ということもあってある程度の成績を残して秋を乗り越えた。
翌春。校庭は土を入れ替えて、素晴らしいグラウンドに変わっていた。しかし、練習は出来ても部員の数は変わらない。メンバーを借りるゲームが続いた。
4月。新1年生の入部でナインが出来ると、練習の内容と度合いが一転した。キャプテンの親父さんが監督に就任されて、OBではない実績高校出身の現役ノンプロの選手とか大学の選手とか、臨時コーチとして、守備練習のノッカーになりバッティングピッチャーになって厳しい指導が始まった。毎日内野手は1人100本のノックを受けた。毎日がハード。少ない部員全員が野球漬けになった。
その結果。春の横浜市の大会では準優勝した。この年の夏の全国大会に神奈川代表となった慶応高校との決勝戦での惜敗だった。
その後、法政二高と元住吉の大学のグラウンドで、練習試合をした。2対0でエースピッチャーが好投してシャットアウトで勝利した。彼等は春の関東大会に出場していた。
我々は、成長していた。
部員3年生4名、2年生3名、1年生2名。
本当にナインだ。
本番の夏。くじ運よく2回戦からの出場になり1回戦を勝ち上がってきた市立南高校との対戦となった。インコーナーのシュートボールを武器とする好投手を擁していた。流石に最初は手元で詰まらされた。それでも難なく勝つ事が出来た。3回戦は日大藤沢高校と。この学校も前評判の高い投手を持っている強敵だった。相手側のスクイズをホームでタッチアウトにした時、スパイクされて、ユニフォームのズボンがきられてベンチではき替えたのを覚えている。接戦を制して、ベストエイトに進んだ。準々決勝の対戦相手は宿敵商工だった。これまでの難敵だ。
その朝。エースピッチャーが肩の痛いことをキャプテンに連絡してきた。彼と彼の家が近かったので、キャプテンはエースの家に行き、すぐに医者に向かった。エースの肩は酷使されていたのかも知れない。硬球を包み込むほどの大きな手のひらと、頑強な身体つきを持つ彼ではあったけれど、重いファーストボールに加え、フォークボール、縦に曲がるカーブ(当時ドロップと云っていた)、スライダー、インシュート等多彩なボールを投げていた為と、投球過多も影響していたのか。時々肩の痛みを訴える事もあった。医者に処置していただき試合に臨んだのだった。その事を、キャプテンは誰にも話さなかった。
4人の3年生は部を離れた。それぞれが、夫々の道を行く事になった。そして、卒業。
そして。
その後のエースの消息が分からなくなった。キャプテンは逝くまで彼を探した。
EPILOGUE ― エピローグ ―
10年ほど前になりますか。真澄会のホームページが出来たての頃、そのページに書き込みが有ったそうで、野球部のOB・OG会長から電話を貰った事が有りました。「夏になりますと、私の父はテレビに夢中になって全国高校野球大会の放映をみていました。そして、懐かしそうに高校の頃の話をしていました。そのような父も最近他界いたしました。どなたか父の高校時代の話を教えていただければ幸いと思い投稿いたしました。」その様な内容のものだったと思います。東京に近い千葉県の或る市で不動産の仕事をされていたとか。お子さんは、姉弟お二人がおられるとか。後日、横浜で娘さんと逢った、彼と最も親しくしていた同級生からの情報で知りました。私は、残念ながら逢いませんでした。
もしキャプテンが存命ならば。と思います。
彼ならこうしただろうと何時も思います。
そして彼なら真澄会の役員も引き受けたに違いない。
そう考えます。
「花橘 66号2015年度」