母校創立百周年記念誌より
「音楽式典」に涙
元教頭 中村英信 (58期)
平成8年4月1日、私は母校横浜平沼高等学校の教頭として赴任した。母校に勤務できることは、教師として大きな喜びであり誇りであった。
その時に、前任者の佐藤庸雄教頭から受けた引継ぎ事項の申で最も重要なものが創立百周年記念事業の準備であった。
準備作業については、平成8年2月に実行委員会を発足させるなど、真澄会の方が先に進んでいた。一方、学校側の実行委員会は平成9年度になって結成された。
記念事業としては様々な事項が考えられたが、学校が中心となるのは記念式典及び記念誌の発行で精一杯であり、又、この2つを含めて事業を実施するに当たっては、真澄会及びPTAに全面的に協力を仰がなければならず、特に募金を中心に真澄会に頼る部分が大きいと考えた。
式典については、会場と形式をどのようにするかが最初の課題であった。会場は、県立音楽堂と県民ホールが候補に挙がったが、両会場共に施設管理の方法が変更されていて、数年前に予約することが不可能だった。
そうした中で横浜市が建築中の「みなとみらいホール」の落成が記念式典の前であることを知り、清田稔、鳥本鉄心両教諭と3人で視察をした。幸いにもホールの責任者が60期生の間瀬勝一氏であった。問題は、同ホールが式典のためには貸さないとのことであった。しかし、すばらしいホールを見た3人は是非ここを使いたいという思いが強くなった。
式典の方式について、校長を始め皆の気持ちの中に「平沼らしい式典」ということが強くあった。ホール視察後にインターコンティネンタルホテルの喫茶室で3人が「音楽中心」にしようと考えたことは必然だった。鈴木真人校長もこのことに賛成してくれた。その頃、真澄会でも偶然同じことを考えていたとのことで、実施に当たって協力を惜しまず他校では真似ができない「音楽式典」として実を結んだ。式典当日は他校に転勤していた関係から客席で参加することになったが、舞台と客席が一体となった式典のすばらしさに「校歌」を歌うときに涙が出て来るのを禁じえなかった。