恩人・岡野欣之助氏と「平沼高校」/真澄会会長(当時) 山口精一(52期)

恩人・岡野欣之助氏と「平沼高校」

真澄会会長(当時) 山口精一

 岡野家のこと

 昨秋、旧東海道の保土ヶ谷宿周辺を歩いた。相鉄線「天王町駅」からJR保土ヶ谷駅方向に歩を進める。
 嘗て関内に通じていた「保土ヶ谷道」旧東海道の分岐点・大門通りを過ぎ、しばらく行くと交通反則センターの交差点に出る。ここは旧今井川に架かっていた「中橋」の跡で案内板が設置されている。旧岡野家はこの付近にあったという。
 案内板を横に見て、交差点を右に曲がると突き当たりに「医王山 遍照寺」(保土ヶ谷区月見台)がある。岡野家の菩提寺である。岡野家は「鍋屋」と呼ばれ、金物などを手広く商う保土ヶ谷宿の豪商であった。
 本堂の手前を左に折れ、だらだら坂を登ると右手に岡野家の墓地を見つけることができた。5、6坪ほどの敷地に数基の墓石が建てられているが、思ったより質素である。その中央に一段高く目立つのが「岡野欣之助墓」と刻まれた12代当主の墓である。

 ところで江戸時代、現在の保土ヶ谷区天王町から横浜駅へかけての一帯は「袖ヶ浦」と呼ばれる風光明媚な入り江であった。18世紀後半から、この入り江に埋立てによる新田開発が始まる。「尾張屋新田」(JR線に架かる「尾張屋橋」は、古称の名残り)が、その初めである。その後、「宝暦」、「安永」、「藤江」と新田開発が続く。
 天保4(1833)年、欣之助の祖父・岡野勘四郎良親も新田開発に着手し、父・勘四郎良哉の代にほぼ完成する。これが武州橋橘樹郡保土ヶ谷町岡野新田(現・岡野町)である。
 (この後、平沼九兵衛が「平沼新田」を開発する)
 跡を継いだ12代欣之助は、慶応元(1865)年の生まれ。神奈川県師範学校を卒業し、数年教鞭をとった後、町会議員に転じ神奈川県農工銀行専務、東陽銀行頭取などを歴任。県財界の有力者であった。
 欣之助は、その一方で祖父伝来の耕地整理に努めた他、保土ヶ谷・桜ヶ丘の地に桜並木を植え、当時の横浜の三大公園のひとつ岡野公園(現・常盤公園・保土ヶ谷区常盤台)を造成するなど、市街地の近代化に尽力した人物でもあった。

 当時、横浜には外国宣教師などによる私立の女学校はあったが、公立の女学校は一校もなかった。
 こうした状況の中、明治32(1899)年、高等女学校令が制定され、神奈川県も高等女学校の設置に動き出す。校地選定には、さまざまな候補地があったようだが、岡野欣之助氏から「教育のためなら」と岡野新田の一部3000坪が寄贈され、県立女学校の建設が具体化されることになった。そして33(1900)年に「神奈川県高等女学校」の設置が認可され、11月には校舎の起工式が行われた。開校は翌年の5月、入学生は178名であった。
 なお、岡野欣之助氏は、その後も寄宿舎や土地を追加寄贈されており、まさに母校の恩人である。
 岡野欣之助氏は、昭和4(1929)年に64歳で永眠されたが、その後の岡野家の動静は、あまり知られていない。菩提寺・遍照寺さんによると、ご子孫は東京都大田区上池台におられるという。

 校名の由来

 話は変わるが、わが母校の校名は「神奈川県立高等女学校」「神奈川県立横浜第一高等女学校」「神奈川県立横浜第一女子高等学校」と変遷する。
 そして、昭和25(1950)年4月1日、教育改革による男女共学の実施に伴い「神奈川県立横浜平沼高等学校」に改称して現在に至っているが、この時ちょっとした校名騒動があった。職員会議では「岡野高校」が地名に因むということで固まった。しかし、生徒たちは臨時生徒総会を開き「平沼高校」を主張して激しく抵抗した。その結果、新校名は生徒側の意向を尊重して「平沼高校」とすることに決まった。
 母校は岡野の地にあるのに何故「平沼」か?彼女たちには「平沼の女学校」「H」と呼ばれる通称に、深い愛着と誇りとこだわりの歴史があったのだ。
 創立当時発売された「横浜絵はがき」に、母校の新校舎の写真が載っているが、当時の校名は「神奈川県立高等女学校」であったにもかかわらず、そこには「横濱平沼高等女学學校」の表記がある。さらに創立40周年記念誌『花橘』に、5期生の太田未千代先輩が次のように記している。
 「何故そう云われたものか40年前此處岡野町に建てられた私達の学校を其頃平沼女学校と呼び倣されていた。(中略)同じ頃埋立てられた平沼町と同視されたのかも知れない」
これは貴重な証言である。創立からわずか数年しかたっていないのに、既に「平沼」と呼ばれていたのだ。
それでは何故「平沼」なのか?

 明治34(1901)年、奇しくも母校が開校した同じ年の10月、現在の相鉄線「平沼橋駅」付近に、国鉄「平沼駅」が開業した。(大正4年、1929年廃業)
 「平沼駅」の開業により「平沼」の町名は広く知られるようになる。「平沼駅」は母校周辺の"ランドマーク"だったのだ。こうして母校は「平沼駅のそばにある女学校」つまり「平沼の女学校」として一般に定着していったのではないかと思われる。
 やがて母校は県下の才媛が集うところとなり、2歳年上の兄「神中」(現・希望が丘高校)と並び称されるようになる。両行の頭文字をとった「H」と「J」という略称も旧制中学時代の人々にとっては懐かしい響きを持つにちがいない。「H(平沼)とJ(神中)の間にはI(愛)がある」という微笑ましいジョークも流布されたという。誇りと愛着を背景に持った「平沼」という通称は、前述したように先輩女性徒たちにとってかけがえのないものであったことは想像にかたくない。
 なお、新校名決定には後日談がある。校地を寄贈した岡野氏の遺族を訪ねた当時の佐藤秀三郎校長は、新しい校名が「岡野高校」でなく「平沼高校」になった経緯を報告しお詫びかたがた了承を求めたが、かえって恐縮され恥ずかしい思いをしたという。
 また「平沼」の地名となった新田を開発した平沼九兵衛の子孫・平沼亮三氏(元横浜市長)は、後年新聞部の生徒が取材した際「軒先の先にあたる所なのに、岡野氏の母屋を取ってしまったみたいだ」と語ったということである。

 終わりに

 私は、「平沼」という校名に異を唱えるものではないが、母校が「岡野の地にあること」(所在地、岡野1-5-8)、そして、この土地を寄贈された「岡野欣之助氏の功績」を皆さんの脳裏にしっかり留めていただきたいと思い、この一文を記した。
 最後に、明治34(1901)年の開校以来、大正5(1916)年の校歌制定まで歌い継がれてきた『開校式の歌』の二番を紹介して終わりたい。

  今日しもひらく  教えの庭に
  立つ若草の  その妻が根は
  いや生ひしげり  としのはに
  岡野の里の  おかしくも
  おのがさまざま  花咲きいでて
  めでたき実をぞ  むすぶべき

「花橘 58号2007年度」

2021年04月13日|公開:公開