創立百周年記念事業の展開と結果/創立百周年記念事業実行委員長 永森邦雄(50期)

創立百周年記念事業の展開と結果

母校創立百周年記念事業実行委員会

委員長 永森邦雄 (50期)

I. 経緯と概要


創立百周年を控え、平成7年6月「百周年記念事業に関する相談会(学校、真澄会、Pの三者構成)が開かれ、その席で「創立百周年記念事業実行委員会要項」が示され、母校には「校内企画委員会」が設置された。
真澄会では、同年5月の総会で設置が承認された「母校創立百周年記念事業実行委員会」が、平成8年2月に発足し、準備が始まった。
記念事業は、平成10年4月の「真澄会ホームページ」の開設から始まり、平成12年を中心にして平成13年1月の「ファイナルコンサート」まで、30を超える事業が実施された。このほか「歴史資料室の整備」や「真澄会室の整備」などの事業は、「百周年記念継続事業」として平成13年度以降も継続することとされた。

 


II. 百周年記念事業が目指したもの


記念事業は、創立百周年を祝うだけではなく、母校の歴史と伝統、現在の個性ある自主と進取の教育の実情と、その教育を受け育った同窓生の活躍の様を世間に発信し、あわせて同窓生相互の交流の輪を広げるべく企図された。記念事業を、一過性のものと見ないで、母校の発展に寄与すること、在校生をも含む同窓生相互の親睦という、同窓会の目的実現のための過程と位置づけた。
また、百周年事業は、数少ない中等教育機関として発足した母校の歴史を通して、高等学校教育が高度に普及した今日における公立高校の存在意義を、世に問いかける機会になることをも目的とした。
百周年事業については、「真澄会報」第38号に基本的な構想(意義、目的、イメージ)を示し、百周年記念誌同窓会編には実施計画(記念事業への真澄会の取り組み)を記載した。従ってここに、事業の展開と結果を登載する。

 


III. 生徒、同窓生、職員、PTA 四者で取り組んだ記念事業


1. 学校、同窓会、PTAの三者の推進体制
記念事業の推進に当たる、学校・同窓会・PTAの三者からなる「創立百周年記念事業実行委員会」は、九十周年の例にならってPTA会長を委員長として発足した。しかし九十周年の例とは異なり、三者を統一した事務局や予算は作られなかった。これは九十年の際とは事業数、予算、人材などの面で、真澄会の存在が大きくなっていたためと思われる。
このことに関して、校内実行委員会編集の「横浜平沼高校百周年事業総括」は、『当初の「組織図」に難があり早いうちに、訂正すべきであった。特にP会長を委員長にした九十周年スタイルは、百周年には、適切ではなかった』と記している。
統一の事務局、予算を欠いたからと言って、三者の協力関係を欠いたわけではない、記念事業に対する真澄会の熱意と努力が、次第に関係者に理解されはじめ、信頼が生まれ一体感が生じ、緊密な連携の下で事業が進められた。
記念事業には、それぞれの主催事業、二者あるいは三者の共催事業があったが、多くの事業で真澄会が重要な役割を果たした。一例を挙げれば記念式典は学校主催の行事ではあったが、作曲、編曲から、合唱などの音楽指導、指揮者、舞台監督はいずれも真澄会員が務め、合唱・オケ参加者、さらには式典の案内状などの準備用務・当日の受付(祝賀・名簿部会が担当)など、様々な場面で真澄会の尽力があった。学校側の取り組みも特筆される。真澄会員の合唱練習には、母校音楽担当教諭が休日にもかかわらず毎回出席していた。式典の実施について学校側と真澄会側との打ち合わせ会も頻繁に持たれた。双方の努力があって、在校生との見事なハーモニーが成立した。
「音楽式典」と言う発想自体が、あらかじめ打ち合わせたかの様に学校、真澄会双方から提案されたことは、驚くべき出来事であった。記念式典は、ややもすれば挨拶主体の運営になりがちであるところ、入場者約1900人の内、生徒・卒業生約500人が出演者と言う音楽式典は、斬新であると同時に生徒にも卒業生にも式典を身近に感じさせた。なお会場に空席があったが、これは多数の出演者が壇上に登っていたためであり、入場者数としては会場の収容力に見合ったものであった。
式典に続く祝賀会も、九十周年では学校主催で行われたが、予算上学校主催が不可能であったため、真澄会の主催で行われた。式典出席を断念までして事務に当たった祝賀・名簿部会員の努力もあり、祝賀会は盛会裡に終了した。

 

2. 真澄会の推進体制
当初の「母校創立百周年記念事業実行委員会」は、準備委員会的な性格のもので、実施可能な事業の洗い出し、実行委員の人材発掘が主たる業務であった。翌平成9年の6月には、6つの専門部会(祝賀会・名簿、歴史編纂、広報、イベント、美術展、スポーツ・親睦)、それらの部会を統括する本部会、実行委員全員からなる全体会の、一大組織に発展し最終的には70名を超す陣容になった。
当初、実行委員会の本部会機能は、理事会がもつべきとの意見があったが、理事も全員がいずれかの専門部会に所属することで、実行委員会は事実上理事会を包含する組織となり、記念事業に対する真澄会の責任体制が整った。

 

3. 実施効果の高揚・・・生徒参加で実施主体は、三者から四者へ
(1) 各事業は、IIに掲げる目的にてらし事業の実施効果を高めるため、計画上でも実施上でも工夫がなされた。例えばPRのためのシンボルマーク、キャッチコピー、ポスターは単に「制作され使用される」だけでなく、生徒や同窓生などの百周年事業への関心、参加意識の醸成に役立つようコンクール方式とされた。【事業の主催(学校)、募集呼びかけ(学校→生徒、真澄会→同窓生)、選定委員会(職員、真澄会員)、賞品代(真澄会)、入選者の表彰式(学校、真澄会員から賞品渡し)、ポスター印刷(真澄会)】。また、費用負担は真澄会、発注は学校が行った藤棚造成、記念碑建立、校旗新調の例では、いずれの場合も完成式や引渡し式を、生徒、職員、PTA、真澄会員が出席して行われた。(演奏、司会、挨拶などの役割をそれぞれが分担)
(2) 過去の周年記念誌は、教育を行った側の歴史を学校が編集したものであるが、百周年記念誌では、これに加え教育を受けた側の歴史を同窓会が自主編集することとし、具体的には1期生から100期生までの歴史の証言を納めた同窓会編と学校編とで母校の歴史を物語るよう編集された。また、他校の百年誌では豪華な体裁のものが目立つが、「授業に使うので、教室への持ち運び易いものを」との教員側の提案もあり、菊版の実用的な体裁になった。
高等学校の百周年誌は、記念事業の実施記録を収録して記念事業の終了後、発行されるのが一般的であるが、母校の百周年記念誌には、記念事業の実施記録が収録されていない。これは、百周年記念誌を式典の「引き出物」として式典出席者に提供したためで、百周年記念事業の実施記録はその後の周年誌に登載することとされた。

 


IV. 事業実施の理念


1. 一点の豪華なハード事業より多くのソフト事業
周年記念事業では、母校への施設や豪華な記念物を寄贈する例が多いが、母校の場合は新校舎建設後間も無く、施設設備が充実していたこともあり、多数の人が参加する・多くの人の心に働きかけるソフト事業が多くなった。(多数の生徒、同窓会員が参加した音楽式典、祝賀会、県民ホールギャラリー全館借り切りの美術展・歴史資料展、オープニングイベント、3つのコンサート、パネルディスカッション、OBG大運動会、)。なお、実行委員会の初期の段階で、真澄会館の建設や真澄会の法人化も検討されたが、資金面や法制度の関係から、何れも実現は困難ないし不可能との判断が下された。

 

2. 会場確保
ソフト事業実施には多くの会場が必要で、その確保にも多くの会員の尽力があった。記念式典会場には、当初県立音楽堂、市民ホール、県民ホール、国際会議場等が候補に挙がり検討されたが、収容人員、式典に続く祝賀会場との位置関係、音響効果などで、いずれも欠点があった。しかし、当時まだ開館していなかったMM大ホールが、ホールと関係する真澄会員の尽力もあって、早い機会に確保された。
美術展・歴史資料展会場確保は、横浜駅西ロデパート、相鉄ジョイナス催場、教文センター展示場等が候補に挙がり交渉が始まったが、最も大きい規模の県民ホール展示場が、抽選にまで持ち込まれ、真澄会員の手により幸運にも一番籔が引かれ、全室が獲得できた。

 

3. 事業は手作りで
(1) 事業推進の原動力卒業生ボランティア
事業は、生徒、卒業生、職員、Pが自らの手で、企画し、実施し、参加した。また、その道のプロであっても無報酬のボランティアで行う方針が取られ、4つのコンサートの開催費用は入場料でまかなう事が出来たように、限られた資金で最大限の事業の実施が実現した。(『「平沼先輩セミナー」「卒業生ボランティア」に象徴される、無報酬ボランティアと言う考え方は、事業全体に、清潔感を与えた。』…前出「横浜平沼高校百周年事業総括」の記述)
事業への卒業生プロの参加は、事業の質の面でも好結果をもたらし、ハイレベルの出来ばえの「記念ビデオ」をはじめ、高水準の事業が行われた。
(2) 事業財政を支えた同窓生の浄財
記念事業の財政規模は、母校側(PTA資金等)約900万円、真澄会約5700万円、合計約6600万円であった。
なお、このうち歴史資料室、会室の整備、財政調整基金に900余万円が残され、真澄会百周年会計は黒字であった。真澄会資金の大部分は、寄付金収入と祝賀会会費や入場料等の事業収入とである。寄付金収入は、真澄会員に対する3年7ヶ月間及ぶ募金活動の結果で、目標を上回る3600余万円が、703名、16団体の多数から寄せられ、会員の母校愛と団結の結果を示すものとなった。

 

4. 事業の広報
「記念事業が実施された」だけでは、実施目的の実現は十全ではない。実施効果が周囲へ及んでいくことが必要で、事業の広報には重視の姿勢で臨んだ。広報の面でも真澄会員の尽力により、一高校の創立記念事業では前例の無い、県庁記者クラブでの発表や電鉄トップの同窓生の配慮によるポスターの京急、相鉄の横浜周辺33駅での掲示、神奈川新聞紙面買取広告など、広報への配慮が払われた。その結果もあり、32回の新聞記事、3回のテレビ放映NHKラジオ放送をもたらした。
コンクールで入選したシンボルマークは、真澄会の封筒、名刺、式典出席者への記念品入れの手提げ袋、記念碑など多くの場面に使用された。広報部会員の個人のホームページから始まった真澄会ホームページは、その後正式な真澄会ホームページへと発展していった。
なお、在校生の編集になる広報誌「美助人=ビスケット」が発行され、その爽やかな紙面は校内外の注目を集めた。

 


V. 百周年記念事業が生みだしたもの


生徒、同窓生、職員、Pの四者の固い連帯感の中で実施された記念事業は、終了後、多くの遺産を生み出し、その実施過程では、真澄会運営改善の契機にもなった。
学校教育の面では、卒業生が母校の教壇に立つ「平沼先輩セミナー」、総合学習に位置づけられた「校史教育」、長年の課題であった「歴史資料展示室」が開設され、「四季別運動会」、OBG大運動会に触発された「ファウスト」、「平沼時報」が復活した。
真澄会活動の面では、スポーツ人の集まりである「HAC」、部OBG会、ますみ俳句会、各地の支部、校歌祭への参加など、会員相互の交流が深まった。また、百周年事業を通して、「高女」と「平沼」が一体になった、「男女共学の良さが改めて認識された」などの声も聞こえてきた。女子が華やかに登場する音楽式典コンサートでも、男子プロの作曲者、音楽指導者、音楽監督、指揮者、舞台監督がそれらを演出した。
また、募金活動の過程で、同窓生の交流が広がり、同窓会活動への関心を呼び、一時的ではあるが会費の増収をもたらし、実行委員会からの会費値上げの必要性提起は、その後の値上げへの契機となった。会員名簿発行、会報発行事業は、専門業者に発注されることが決断され、大幅な経費節減が図られた。
しかし、百周年が生み出した最大のものは、学校と同窓会との信頼関係であろう。学校への同窓生の思いと、同窓会への学校側の理解が、両者の信頼関係を生み、その信頼関係が百周年事業を成功に導き、先輩セミナー、校史教育、歴史資料展示室の設置・運営などの原動力に発展した。
先輩セミナー事業には、真澄会員が講師を務めるのは勿論、講師候補者の情報提供にも真澄会が協力した。セミナーは両者の協力でその後も毎年計画的に開催されている。
歴史資料展示室は、都立日比谷、福島県立安積、新潟県立長岡など、20年以上前に設置されている例が多く、本県立高校の中では先鞭をつけて開設されたが、全国的には後発組である。これはこの種の資料室がおおむね当該校の百周年を契機に設置されたところ、本県立の旧制中学校や高等女学校の創立が、全国で最後発組であったことにも起因する。本校の歴史資料室設置後、小田原高校校史展示室、横須賀高校校史資料室が、相次いで開設され、湘南高校に近く設置予定がある。
本校の歴史資料展示室は、展示室に対する学校の積極姿勢(「校史教育」として総合学習に位置づけた、中学生に対する本校の「PR施設」として活用されている)と、真澄会理事会歴史資料委員会の諸氏による努力で、多くの利用機会を得ている。規模は大きくないものの、入場者数は多く、他校施設にない良さを発揮している。
百周年記念事業は、母校百年の歴史を祝い、その歴史を振り返るものではあったが、21世紀における新しい歴史の確かな出発点となった。

 


VI. おわりに


100年に一度の記念事業は、お蔭様で成功裡に終了、度々マスコミにも取り上げられ、母校の存在を各方面に印象付けることにも、一定の成果を挙げた。
このことは、学校管理職の温かい理解と適切な指揮の下、教職員、Pなどの母校関係者、とりわけ総務主任を筆頭とした校内実行委員会各主任の先生方の、大変なご尽力によることは論を待たないが、会員各位の努力を忘れてはならない。記念事業への多くの会員の協力は、母校教育で育まれ卒業後の社会生活で身に着けた能力、知識、経験、地位が可能としたもので、様々な形で事業の企画、実施を推進した。
特筆すべきは、事業への会員参加の広がりであろう。式典、祝賀会、コンサートなど会場へ身を運んでいただいたこと、募金への多数の応募など、文字通り会員の総力が事業を支えた。
「母校創立百周年記念事業実行委員会」の70名に及ぶ委員の方々には、6年にわたり大変なお骨折りを頂いた。委員の中には全事業の終了を待たず、あるいは終了を待っていたかのように、何名もの方が亡くなった。ここに心からのご冥福を祈り委員各位のご協力に、改めて心からのお礼を申し上げる。

母校創立110周年記念誌より

2022年01月25日|公開:公開