花橘54号 連載(3) 先輩セミナー2003 小川高義さん(71期)横浜市立大学助教授・翻訳家

先輩セミナー2003

―魅力と特色プラン委員会―

開催日および講師紹介

①9月23日(土)
 内海 功さん(90期)慈恵医科大学病院麻酔科医
②10月18日(土)
 濱野 穆さん(54期)産婦人科医・高齢者福祉
 安部 治子さん(91期)助産師
③10月18日(土)
 小川高義さん(71期)横浜市立大学助教授・翻訳家
④11月15日(土)
 篠崎孝子さん(45期)有隣堂会長
⑤11月15日(土)
 中島陽一さん(50期)声楽家
 村川静香さん(92期)ピアニスト
⑥12月6日(土)
 佐分利昭夫さん(50期)九州工業大学講師


小川高義さん(71期、横浜市立大学助教授・翻訳家)

 翻訳の世界には、20年、30年のベテランもたくさんいますから、10数年の私の経験から言えることは「途中経過」に過ぎませんが、今日は4点ほどお話ししてみます。
 一言で言うと「清く正しく美しく」あるいは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということになるでしょうか、いかに己を空しくして原作を日本語に置き換えていくかということだと思います。紙の上にインクで印刷された文字は言わば「デジタル情報」です。それを眺めているうちにアナログ変換されてある世界が見えてくる。私たちが「デジタル情報」として提供した商品から読者がどんな世界を読み取るかを考えてみるということです。原作は、作家の文章ですから力のある英語で書かれています。それを翻訳するのにはやはり力のある日本語・・・日本人が見て日本語らしいと思える日本語でないと負けてしまします。そこで「翻訳は結局日本語」というように言われやすいのですが、それは違います。

 まず今日お話しする第1点は「読みの重視」です。英語をきちんと読めることが大切です。たとえば、冠詞の"the"と"a"の違いは一応知っていてもあまり意識することがありません。そこで"a final atrocity"を「最後の残虐行為」と誤訳するようなことが起こります。これは「たくさんある同じような残虐行為の中の最高度の残虐行為」つまり「究極の残虐行為」と訳すべきです。また、小説の文章の中ではその場面を考えるのに重要なヒントになることがあります。"A door was closed."が"The door"でないのは、その部屋のドアではなくて、今見えていないどこかの部屋のドアが閉まる音、気配がしたということだからです。これを「ドアが閉まった」「ドアが閉められた」と訳しては状況が正確に伝わりません。"a fish"は頭と尻尾がついた魚一匹。私たちは普通"a fish"ではなくて"fish meat"(魚肉)を食べているわけですが、魚の種類という意味では、"a fish called Fugu"(河豚という種類の魚)を食べる習慣がある・・・といえるわけです。

 第2点は、「訳語という幻想を捨てる」、英語の単語から浮かぶ日本語、「訳語」を一度我慢するということです。インターネット上でよく見る"There is a problem with the page you are trying to reach and it cannot be displayed.""problem"にあたる訳語は「問題」ですが、「現在このページには問題があるので表示できません。」と日本語で表現すれば、内容的に見せられないような事情があるように理解されるでしょう。技術的な「支障」という意味なら「現在このページは標示できません。」として、「問題」という言葉を入れる必要はないと思います。"narrow"は「細くする」ですが、"narrowed his eyes"は不快を表す表情ですから「目を細めた」ではなくて「眉をひそめた」としなくてはなりません。英語で書かれているイメージを日本語に直していかなくてはなりません。「訳語」が邪魔をすることがあります。しかし、英語で表現されているイメージを日本語で書きあげるというのは「意訳」しなさいということではありません。私は「意訳」「直訳」という区別はないと思っています。その時点で自分にとってこれだという訳は一つしかありません。それを探していくのはまさに「念力」のいる作業です。それは演奏家が楽譜から音楽を演奏するのに似ています。残りの2点は皆さんには難しいかもしれませんが、簡単にお話します。

 3点目は「全体の流れを保つ」ということです。文という短い範囲ではアマチュアでも時にナイスプレイをすることがありますが、プロは作品を通して一つのスタイル(文体)、雰囲気を保たなければならない、これが大切です。また登場人物のキャラクターが見えてこない小説はおもしろくありません。イメージを伝えると先ほど言いましたが、登場人物のイメージという点でもそれが言えます。読みの段階や、個々のイメージを日本語に書きあげていく段階では冷静な自分が必要ですが、この段階になると熱い自分が必要です。登場人物になりきってドラマに入りこんでいく。だから私は、「訳者」は「役者」だと言っています。

 そして最後に・・・先ほど翻訳を演奏に喩えましたが、音楽を演奏するのと翻訳では決定的に違うところがある。音楽では一つの音譜・一人の作曲家の音楽を一人の決まった演奏家しか演奏しないということはありませんが、翻訳は違います。一つの原稿・一つの作品は普通一人の翻訳家しか訳しません。大切な芸術作品をまずい翻訳で損なってしまうかもしれないわけで、足が震えるほど責任を感じます。だから、むやみに自分の個性を出すべきではない。時々「自分らしい個性的な翻訳をしたい」という人がいますが、おやめなさいと言います。以上をまとめると「翻訳は清く正しく美しく」ということになります。ここにいるみなさんがすべて翻訳に関わるわけではないでしょうが、今日お話ししたことは普通の読書をする際のヒントにもなるだろうと思います。

【生徒の感想】

  • このセミナーに参加した理由は、もともと『ことば』に興味があったからだ。結果として、このセミナーは、僕の『ことば』への興味をより一層深いものにしてくれた。
     翻訳家という仕事について、興味はあったものの、実際のところよく知らなかった。今回のセミナーで、その霧がすっきりと晴れた。
     まず大事なのが、「読むことの重視」。読む段階で、あとの翻訳がほぼ決まる。そして、「イメージで訳す」。先輩は「『訳語』という観念を捨てる」とまでおっしゃった。あと、「全体の流れを保つ」事も大切だ。語り口、人物像などの面でも原書の雰囲気を十分に考慮して訳さねばならないのだ。
     あと一つ、今まで思ってもみなかったことが、「翻訳家と音楽家はよく似ている」ということだ。翻訳家は、原書の作者の意図するものを十分に把握して読者に伝える。音楽家は、作曲者が望む表現をしっかりと汲み取って演奏する。ただ、決定的に違うのは、音楽家の場合、同じ曲でも大勢の音楽家によって演奏されるが、翻訳家の方はというと、同じ本が複数の翻訳家によって翻訳されることは通常ありえない、ということだそうだ。この話は、吹奏楽部の一員である僕に、音楽家の役割を考える契機をも与えてくれた。

  • 小川さんは、翻訳するにあたって重要なことをいくつか話してくれました。その中でも一番印象に残ったのは「原作に負けないくらいのものになるように訳す」という言葉です。これを聞き、僕は言葉選びをどれだけ慎重に行わなければならないか、そしてそれにどれだけ責任があるかが少し感じられたような気がします。ただ単純に単語の意味をあてはめるのではなく、物語の人物像やその場の雰囲気を乱さないように原作以上のおもしろさを引き出すというすごさ、大変さが伝わってきました。
     小川さんは、翻訳する時に使う技も教えてくれました。その内容は、名詞に付随してくる冠詞の違いで、その話の雰囲気が変わるということです。例えば「a fish」と「some fish」の違いです。「a」のついた魚は、「一匹の魚」というところから生きた魚ということがわかります。「some」は、不加算名詞につくから、数の特定できないような魚、つまりもうすでに食品として加工されてしまった結果、肉のかたまりとなった魚であるということがわかります。このように、冠詞による情報のおもしろさに少し感動しました。
     小川さんが話してくれたことは、これだけではありません。機械的に翻訳されてしまった結果、意味の取りづらい文となってしまったネット上の訳などを、小川さんは痛烈に批判していました。もっと簡単な例は、教科書等で多く取り上げられている「I am a boy.」を「私は少年である。」という不自然な訳に対する指摘でした。これには僕も同感です。
     この先輩セミナーに参加して、翻訳の奥深さがわかってよかったと思います。

2021年06月15日|公開:公開