夜霧のしのび逢い
江蔵耕一(えぞうこういち)
裕次郎の「夜霧よー、今夜もありがとうー」ではないけれど、確かに夜霧は風情があり、旅先ではいっそう叙情的な雰囲気をかもしだす。また、港横浜の夜霧と汽笛も同様である。夕方から日没にかけて夜霧の山下公園を歩くとなるほどと実感がわく。特に夜霧が周辺を包み込む風景に汽笛のボーという音を聞くとなんとなくロマンチックな気分になるというものだ。
裕次郎は「夜霧シリーズ」として、「夜霧のブルース」、「夜霧の第二国道」など一連の歌を歌っている。
また、港と夜霧はいつの時代でも映画や小説のなかでヒロインの「場」と言う役割を果たしてきた。
映画では1965年に日本で公開された、ギリシアの「夜霧のしのび逢い(原題はTHE RED LANTERNS)」があまりにも有名である。やはり、港が背景にあり、主人公は娼婦であるが色々な人間模様を描いた作品で監督はパシリ・ジョルアデスで観た方も多いのではないかと思われる。
さらに1968年にはフランス映画で「夜霧の恋人たち」が作られているから当時は夜霧が文化の面で一つの流行になったのではないか。
夜霧は季語では「秋」をさす。秋の風情と夜霧はマッチするのである。
万葉集の中に作者不明で次の句がある。
「君が行く海辺の宿に霧たてば吾が立ち嘆く息と知りませ」
(あなたが海辺に旅寝したとき、霧が立ち込めたらそれは私の嘆きの息だと思
ってください)
恋人か妻かは定かではないが恋しい人が旅立っていく時の別れの歌であるが、嘆きの吐息と霧を重ね合わせるなんてなんと風のあることか、万葉の人の心のよすがを表現しているではないか!
ただし、当時の人は息が天に昇って霧や雨になると信じていたらしいから霧と吐息はまったく同じものであるから作者の嘆き悲しみは相当なものであることがうかがえる。
このように夜霧は詩歌や映画の世界でそして国道の中でも歌われたが当時は車も少なく、大学に入学した時トヨタの千ドルカーである「パブリカ」が発売されたばかりで車を持つと言うことは大変なことであった。近年は車が多く道路交通法では必ず霧の中では霧灯や前照灯をつけなければならない。当方も山間部の高速道路で霧の中を走行したが真っ白な世界に飛び込んだみたいで、道がどうなっているのかさっぱり分からず往生したものである。
閑話休題。
さて、ここで本題に戻ろう。
1965年に日本で公開された「夜霧のしのび逢い」は空前のヒット作となったが当方はその時の入場券の切れ端をアルバムの中に大事に保存してある。日比谷の「みゅき座」と印刷されているから多分封切りの時のものである。
しかも男女の苗字がその中に記載されている。当方のは黒のインクで、もう一人は赤のインクで書いてある。
「同時代」99号で「Sとわたしとふるさと」のタイトルで私のふるさとのことを書いたが、もう少し大人になってふるさとの鹿児島県大隈半島の大きな湾の中央部に位置する半農半漁の町で志布志中学校に通った時のことである。
当時はまだ戦前からの木造校舎で床も壁も机も椅子までが木造であった。いかんせん団塊世代の一クラス50人以上と言うすし詰教室で生徒の机の距離も今みたいにゆとりがなかった。だから、先生の目を盗んで机をがたがた鳴らしたり、椅子をぶつけあっても誰がやっているのかわからない状態であった。
私もいっしょにがたがたやっていたが、ちょうど前に座っていた女の子が後ろを振り向き凛とした大きな声で「やめてちょうだい!」と一喝したのである。
普段はおとなしい子で特に目立つ存在ではなかったが当方は一瞬きょとんとして一言も口を聞けなかったことを覚えている。
切れ長の目をした少しきつい感じの中肉中背の女の子であったがそれ以来どうも気になって椅子の配置換えがあってもその子の顔を見ないと気がすまないようになっていた。その子が教室の後ろの方に座ると、授業中でも振り返ってみたり、黒板に近いほうに座るとこっちのほうを振り向かないか期待したものである。休み時間に話をすることははずかしくてできず、それで勉強の方でめだってやろうとして四百人中五十番以内をキープし続けクラスでも上位になっていた。その子は農家の娘であまり裕福ではなくクラブ活動はしないでまっすぐ家に帰る子だった。
なんとか、二人だけで話すチャンスはないものかと考えていたが転校生の身故いつもいじめられていたのでけんかばかりしていて家に帰ると怒られてばかりいて残念ながらその子に一言も言えないでいた。そして中学二年の終わりには親父の転勤で川崎市に引っ越すことになりとうとうそれっきりになってしまった。
川崎の中学校も全部木造であったが田舎と違い床の掃除はモップを使っていたのが印象的であった。なぜなら田舎では箒を使っていたのである。川崎市の幸区にある御幸(みゆき)中学校と言う名前であったが、ここでも陰湿ないじめを経験した。中学を卒業すると同人雑記編集長の小山さんと同じ横浜平沼高校に入学し、きわめてなにごともなかった平均的な高校生活を過ごし、そこででは女性の偉大さを経験させられた。なぜなら共学校でありながら、テストの上位二十番目ぐらいまではすべて女の子であった。男の立ち入る隙間を与えなかったのである。しかしそれは当たり前のことであり、大学に入学して民法を学ぶが次の民法の第二条が目に入ったのを覚えている。
「この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない」
今でこそ、男女共同参画と叫ばれているが、なんのことはない。私が生まれた昭和22年に施行された日本国憲法の平等の原則を民法の世界でも実現させるべく昭和22年の民法の改正により定めたものである。
わが母校の高校では戦後共学になったが民法の規定にかかわらず男女の本質的平等を実践していたのである。
そしてそのまま浪人もせずに中央大学法学部に入学し、一挙に自由を爆発させてしまった。それからはアルバイトづけでとうとう四年生まで続け、四年生の時横浜市の伊勢佐木町にある有隣堂本店に勤めた時は当時の部長から卒業したら是非当社へと誘われ、ていねいにお断りしたのを今でも覚えている。
どこで、その情報を手に入れたのか定かではないが多分、夏休みの帰省の折に中学の同級生から聞いたと思われる。くだんの女の子の情報であるが、地元の高校を卒業して東京の大手デパートに勤務しているという。大学と言うところは不思議なところで文系であれば語学を除き出欠はとらないのが相場ときている。だから文系の生徒は大学を総合遊園地化してサークル活動に身を入れ、勉強を怠る。当方も青春を爆発させるべく、サークルを渡り歩き、気がついた時はすでには時すでに遅し。大手企業の推薦を受けられないので、公務員志望となり、国家公務員上級、都庁、神奈川県庁、海上自衛隊幹部候補生試験、新東京国際空港公団を受験し、国家公務員上級のみ落ちて、あとは全部合格し、地元ということで神奈川県庁に就職先を決めた。したがって、大学生活のうち本当に勉強したのは一年ほどであり、あとはアルバイトとサークル活動にうつつをぬかしていた。
ちょうど、うつつを抜かしていた頃、女の子の情報が手に入り、同郷のよしみということでコンタクトを取ることができた。大学一年の秋ごろだったと思う。相手はすでに社会人となっており、お化粧までしているので中学時代のおもかげを必死になって追いかけるだけで相手の顔を見るのがとてもはずかしくとてもまぶしく感じられた。再会した時は本当に何を話したか今となっては遠い忘却のかなたになってしまったが、どうにか、映画でも見ようというアポイントまでこぎつけた。映画館はみゆき座で封切りだった。映画の内容を理解する余裕はなく何を話したかまったく覚えておらず、二人とも無我夢中であった。
映画館を出たとき外は「夜霧」ではなく、「秋雨」であった。別れ際に二人とも無言で握手をしたがそれ以来その女の子とは一度も会っていない。