戦争体験談(中川小学校での講演会)/荒武千恵子(45期)


去年の体験談の日から一年間何とか来年もちゃんと


お話ができるようにと、そのことばかりを考えて

やってきたような気がします。

本当にいい学校で、いい方々ばかりで、嬉しくて

楽しくて、でも、もっとよりよくお話できないかと

毎日のように考えながら、一年間を過ごしてきました。



人間何が幸せかわからない思う時もあります。だって、

戦争の体験をしていなかったら、あんな素敵なお若い方々

に会えなかったでしょうからね。

では、今年書いて先生方にお渡しした原稿を皆様にご披露

させていただきますね。 子供さん方には、時間が足りな

くて、全部お話していませんが・・・。




みなさんおはようございます。

私は、横浜生まれ、横浜育ち83歳の荒武千恵子です。

一昨年から、この学校の6年生の皆さんに戦争体験を

お話させていただけるようになりました。 私は何時

も入場してこられるみなさんのお顔を拝見しています。

皆さんはかわいいだけじゃなくて、目がきらきらして

います。これはすばらしいことです。多分、この学校

の校長先生はじめ先生方のご熱意というのもありますが、

それだけじゃなくてPTAの外に、スマイル発信隊の皆さん

というすばらしい方々がいらっしゃっるし、町全体が

皆さんをちゃんと見守って下さるからだと思います。

こういう風に大事にされて育ったお子さん方は、とっても

素直で、これからどんどんいろいろの方面で伸びていかれ

ると思います。


・1937年7月7日から、日中戦争が始まりました。

 私の町ではクリーニング屋さんのおじさんが兵隊さんとして

 応召されました。その頃は、大勢の在郷軍人さんとか、愛国
 
 婦人会のおばさん方や、子供たちまで大勢の人々が神社に

 集まって、出征兵士を近くの駅まで、みんなで行列をして

 お見送りをしたのです。その兵隊さんの家には、厚い立派

 な木の板に、“出征兵士の家”と墨痕鮮やかに書かれた看板

 が掲げられました。しかし、まもなく“戦死者の家”という

 看板に書き換えられたのです。

 それから、男の人だけでなく、女の人も従軍看護婦さん

 になったり、畑で農耕馬として働いたり、町の通りをトラック

 のように物を運んでいた馬たちも、馬の持ち主と一緒に戦地に

 いきましたし、シェパードも軍用犬になり、鳩も伝書鳩として

 戦地へ送られました。

 それまでの日本も、今と同じようにいろいろな品物を輸入し

 て生活していましたので、その輸入に使われていた運搬船が

 兵隊さんを戦地に運ぶために使われたり、時には、アメリカ

 軍の潜水艦に魚雷で沈められたり、また、輸入もできなくなり

 どんどんどんどん品物もなくなり、お店で物を売ったり、そこ

 へ運んでくる人も少なくなり、お店の数も減っていき、電車や

 バスの運転手さんや車掌さんが足りなくなって、日常生活が

 できにくくなりました。

 そこで、それまで家で花嫁修業をしていたお嬢さんたちや家の中

 で働いていた女中さんとか家政婦さんまでが徴用されることに

 なったり、訓練を受けて運転手さんや車掌さんになったりしました。

 軍需工場にも女性が働くようになりました。

 石油が足りないので、バスも木炭で走るよう改造されました。

・1939年ごろには、お菓子を買うにも袋を持っていかないと

 買えなくなりましたし、それもほんのちょっとの間で、お菓子

 そのものがなくなってしまいました。

・1939年10月には米国配給法の実施が決定されました。

 食料品[米、麦、大豆、砂糖、味噌、醤油、酒、卵、牛乳  
 
 野菜等]
 
 衣料品、たばこ、マッチ、石鹸,薪炭等

(米の配給が実際施行されたのは1941年の4月です)

・1940年隣組制度が始まりました。政府からの通達が徹底される

 ように、5軒から十軒を一纏めにして、隣組を作り、組長さんを

 決め、毎月一回組長さんの家で、常会が開かれました。

 隣組を単位に国や町からのお知らせを回覧板でまわすとか、国債を

 買わされたり、宝石類や金属類の回収、出征兵士の見送り、防空演習、

 竹槍の訓練に駆り出されました。

 ところによっては、お野菜やお魚などの配給も組長さんの家に一括し

 て届けられ、そこで、みんなの家に分けられたのです。

 私たち小学生も、毎日学校へ登下校のときに道端に落ちている古釘

 などを拾って、学校へ持って行きました。


・1941年4月お米の配給通帳制と、外食券制度が6大都市

で始まりました。

当時、男子成年は一日430gのお米を食べていたそうですが、

100g減らして330gと決められました。女子や老人子供

などはそれぞれ減らされたのです。当時はおかずが少なかった

ので、お米で殆どの栄養を摂るので、たくさん食べる必要が

ありました。其のうち代替物が一緒に配給されたり、混入され

たりするようになりました。[大麦、大豆、高粱、とうもろこし

の干して砕いたもの大豆かす(大豆から油をとった後のものを

干したもので平たくなっていた)ところによっては、粟とか稗

などもあったようです。

又、南京米という中国からのお米も配給になりましたが、ぼそ

ぼそしておいしくありませんでした。

都会で働く男子にはお米の配給をもらうときに食券を何枚か

もらうのです。それはお米の量から差し引かれるということで

した。その食券がないと、会社で働いて近くの食堂でお昼を食

 べることもできませんでした。

 それでも、私の父は、お昼が近づくと、早めに会社を飛び出し

 て、食堂の前に並んで、食券一枚を渡して、お雑炊を食べる

 ことができるのですが、中のお米がだんだん少なくなり、水分

 がだんだん多くなって、一枚の食券分だけでは到底食欲を満たす

 ことができないので、もう一度列の後ろに並び食券を二枚使う

 ようになったそうです。子供たちはサツマイモやジャガイモを

 お弁当の代わりに持っていったりしましたが、そのサツマイモも、

 今のようなおいしいものではなく農林何号という収量を増やす

 ためにだけ開発されたものでした。その量も十分ではなかった

 のです。各家庭でも、お庭を畑にするとか、道端の雑草も食べら

 れるものはみんな食べました。サツマイモを乾燥させて物を

 粉末にして、水を加えて、練り、丸めて、蒸し器に入れ、蒸して

 いただきましたが、空腹を満たすだけに食べたようなものでした。

 女学校での家事の実習の時間に最初はサツマイモの茶巾絞りを

 教わりましたが、材料がないので、次には雑草のどんなものが

 食べられるか、どんな部分が食べられるか、どうやって食べるか

 を教わりました。その後は料理の実習の時間はなくなりました。

 かぼちゃの種も干して炒って,皮をむいて頂きましたし、サツマ

 イモや、かぼちゃの蔓等も食べたものです。

 学校ではお弁当を持ってこられないお子さんたちもいたので、

 ほかの人のお弁当を盗み食いする子供さんもありました。

 サツマイモを生で切って乾燥させたものもありましたが、とても

 まずいものでしたし、海草麺とか、かいほう麺という真っ黒い麺

 のようなもので、海草を混ぜたといわれているものもありました

 が、味もなくぼそぼそして食べられたものではありませんでした。

 その頃、長いこと結核で床についていた母方の祖母が死期を悟り、

 何かみんなに上げたいということで、伯母に頼み、いろいろと

 知り合いに手をまわして、やっと、サツマイモの切干を手に入れ

 て、孫たちを枕元に呼び集めて、一人一人と握手し、その切干分

 けてくれたのですが、こんなものしか手に入らなくなってと、さも

 悲しそうな顔で、やせ細った手をお布団から出して、一人一人と

 握手して、二、三日後に亡くなったのでした。

 お米の欠配とか、遅配とかもありました。一般の家庭では、闇米

 といって、お店ではなく知り合いを通して公定価格という決めら

 れた値段ではなく高い値段でお米や小麦、大麦などいろいろ買っ

 ていましたが、いくらお金を出すといってもなかなか手に入らな

 くなっていきました。

 横浜でも、大きな農家の人の中には食料に困らなかったという方

 もおられますが、1942年に私は父の仕事の関係で大阪に行き

 ましたが、その前に横浜の野沢屋と言う大きなデパートへ母と

 買い物に行ったのですが、ご飯はお米ではなく、麺米と言って

 乾麺を5ミリ長さに切ったものを炊いたもので、まずくて食べ

 られなかったのですが、その後大阪へ行き、母とデパートで

 食事をしたときには、フランス料理のコース料理もありましたし、

 中華、日本料理となんでもありましたので、びっくりしました。

 大阪は商業都市でしたので、食べ物だけでなくなんでもまだまだ

 十分あったのです。 

 そんな風で、日本中、まったく同じような暮らしではなかったと

 思います。1944年には、横浜の本牧ではところてんやさんの

 お店が一軒があるだけでした。配給のほかには食べ物を売ってい

 るお店がなかったのです。おかずなんか何もないときもあり、

 私が、1945年に学徒動員で海軍航空技術廠の釜利谷の寮から

 持たせてもらったお弁当はアルミのお弁当箱にふわっと入ってい

 たのですが、大豆かす[大豆から油を絞った後のもの]高粱、大麦、

 どうもろこしの砕いたものなどの中にほんの少しお米が入ってい

 たものに半分に切った沢庵4切れが入っていたのですが、家に

 持ち帰ったときには、お弁当箱の半分のも満たないほどの量で、

 母がそれを見て、“お国はこんな子供まで働かせて、こんなもの

 しか食べさせてくれないのかといって泣きました。


・1941年10月大学や専門学校生の修業年限を3ヶ月短くすること

 を決め同年の大学生を対象に12月に臨時徴兵検査を行い、合格者

 を翌年2月に入隊させました。

・1941年の12月8日に太平洋戦争が始まりました。

・1942年の4月18日は土曜日で、よく晴れた日で

初めてのアメリカ軍の空襲が東京横浜にありました。

多分このときには、航空写真を撮りに来たのでは

 ないかと思います。

6歳の男の子が一人なくなったとか聞きましたが、定か

ではありません。中村橋のあるおかみさんが、落ちた焼夷弾に

 お鉢のご飯をかぶせたら、消えたと言う噂が立ちましたが、

 真相はわかりません。

 当時はあまり報道されなかったのです。

・1942年には、予科と高等学校も対象として修業年限を

 6ヶ月も短縮して9月卒業。10月入隊の措置をとったのです。

・1942年4月女学校に進学しましたが、一組50人で6クラスあり
 
 ましたが、一組だけは親御さんのご希望で英語の授業があり
 
 ませんでした。英語があるクラスでも一週間に一時間(実質

 45分)で、二年生からはまったく英語の授業はなくなりま

 したし、英語は敵生語だと言うので、スポーツ用語もバレー

 ボールは、排球、バスケットボールは籠球、テニスは庭球、

 ピンポンは卓球といわなければいけなくなりました。

 英語がまったく使えなくなったのです。

 反対にアメリカでは、大いに日本語を学び、日本の研究を進めた

 そうでした。

 私たちの学校では、薙刀のお稽古が始められました。

 学校では、先生が出征されたりして、自習時間が多くなりました

 し、軍人さんの肩章を作らされたり、従軍看護婦さんのはく毛糸

 のパンツを毛糸を渡されて、編み方を教えられ編んだりしました。
 
 女学校にも農業の先生が赴任してこられ、テニスコートがつぶさ
 
 れて、畑になり、作物の作り方を教わりました。

・1943年6月東条内閣は学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定

 しました。従来兵役法などの規定により、大学、高等、専門学校

 [いずれも旧制]などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていたの

 ですが、兵力の不足を補うために次第に駐兵猶予の対象は狭く

 なっていきました。

・1943年10月2日、在学徴集延期臨時特例を公布。


 [これは戦局悪化のため下級将校が不足したので、この処置をとら

 ざるを得なかったのです。]

 これは理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育所学校の在学生

 の徴兵延期措置を撤廃するものであったのです

 この特例の公布、施行と同時に、この年臨時徴兵検査規則が決められ、

 10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者まで[開放性結核者を

 除く]までを12月に入隊させることにしました。

 この第一回学徒徴兵入隊を前にした1943年10月21日、東京

 の明治神宮外苑競技場では、文部省学校報国団本部の主催による出陣

 学徒壮行会が行われました。

 多くの女学生がお見送りをしました。全国各地でも開かれましたが、

 壮行会は二回目以降は開かれませんでした。

 中学校にも航空志願兵を募るというポスターが貼られて多くの少年

 が応募しました。

 ・1944年には3月に決戦非常措置要綱に基づき、学徒の工場配置

 が決定されたのですが、1944年の12月19日から1945年

 の1月31日まで女学校に二年生のときに私たちは横浜の鶴見にある

 森永工場へ学徒動員されました。私たちの仕事は元気食というものを

入れるパラフィン紙の袋貼りや、航空耐寒食というチョコレートを

入れるための筒を作っていました。チョコレート色の紙と銀紙と、パラ

フィン紙の三枚をかさねて、直径2,5センチぐらいの筒状のものを

作る仕事を一日中立ってやるというものでした。

朝8時に工場へ行くと、手がかじかんでいるので、仕事にならないた

めに女工さんたちが大きなバケツにお湯をいっぱい入れて持ってきて

くれて、みんなで其の中へ手を入れて温めてから仕事に取り掛かり

ました。

私たち低学年の女学生は3時になると、仕事をやめて食堂に集まり、

お茶碗いっぱいのご飯[押し麦と麺米入り]にごま塩をかけたものが

お皿に盛られているのをいただいてから帰宅することになっていま

した。週に一回は大根だけが入ったカレーライスが出るのですが、

森永の湯元さんという主任さんが、毎回、これは森永のバターが

入っていますので、おいしいのですと必ず宣伝の文句を言われまし

たが、当時はおいしいものは何もない時代でしたので、私たちは

楽しみにいただきました。

月に一回は戦前に10銭で売っていた森永のキャラメルを一個と

“ごすけ”というビスケットの割れたり焦げすぎたものが一袋づつ

支給されたのです。家に持って帰ると、当時は町では全然見られ

ないものでしたので、弟や妹が大喜びでした。

その後、一時学校に戻りましたが、横浜大空襲の後の6月の23日

から海軍航空技術省の支廠に動員されて魚雷の図面を見ることを

教わったり、鑢で鉄の円柱を削る仕事をさせられました。

焼け出されたものは釜利谷の寮に入るようにといわれましたが、

寮の食事はひどいものでした。一度だけお刺身がほんの少しだけつい

たので、みんな喜んでいただいたのですが、翌日みんなで下痢をして、

寝込んで仕事を休み、精神がたるんでいるとお叱りをうけました。

其のお刺身は寮のコックさんの出征を祝うためのものだったのです。

同じ寮に山形から私たちより2,3歳大きな方々が来ておられました

が、山形は米どころで、山形からお米が運ばれてきていたので、私た

ちのような雑穀のいろいろ入っているご飯ではありませんでした。

お餅なども持ってきていたと聞きました。

私たちは国防色の作業着を渡されましたが、ひどくざっくりと

織ったもので、上下に分かれ、上着も、ズボンも大人用のものでした

から、小さな私には、だぶだぶで、両袖と、足元も上げをしなければ

ならなかったので、付き添いできておられたお裁縫の先生が、大変

だからと、上げをするのを手伝ってくださったのでした。

後で聞いた話ですが、小学校の同級生だった男子が動員された工場

では、作業するにも材料がなくて、できず、草刈をやったり掃除を

したりしていたところもあったそうです。


・1944年6月30日学童疎開推進要綱ならびに避難

 要綱が発表されました。

 日中戦争のころは飛行機の航続距離が短かったので、

 戦闘は中国やらアジアの諸国で行われていたので、

 日本には空襲はありませんでしたが、そのうちアメリカ

 がB-29という大きな爆撃機を開発し、航続距離が

 長くなって来たので、日本まで空襲にやってくるだろう

 という心配が出てきましたの。

 日本政府は次の世代を担ってもらう大事な小国民を全国

 各地に疎開させるという方針を打ち出しましたが、神奈

 川県では、自分たちの子供は自分たちで守るという考え方

 で県内のあちこちに疎開させました。1年生と二年生は

 無理だろうということで3年生以上が疎開の対象になり

 ました。

 箱根、厚木、座間、大和、秦野、横浜の港北区などのお寺

 や旅館、その他の県の施設なども使って、子供たちを集団

 疎開させました。国はできるだけ自分の知り合いを頼って

 縁故疎開をして欲しいという考えだったのですが、縁故疎開

 できる人があまり多くはなかったのです。

 沖縄やサイパンなどからも引き上げてきたのですが、沖縄の

 子供たちを乗せた船がアメリカの潜水艦に撃沈させられる

 という事件も起き、多くの人々が亡くなりました。先生方は

 勉強を教えるだけでなく、山に薪をとりにつれていったり、

 床屋さんをやったり生活の面倒まで見るので、大変でしたが、

 男の子は丸刈り、女の子はおかっぱでした。

 子供たちは配給のものだけしか与えられなかったのでみんな

 ひもじくて、山に薪を採りに行ったときに、どんぐりなどの

 木の実をとってポケットに入れ、夜お布団の中で食べたりし

 たので、みんな次々にお腹を壊して家に帰されました。

 中には6年生の男の子がお米を配給所まで取りに行くときに

 生米をあちこちのポケットに入れてしまうので、もって帰る

 量が減り、ただでさえ少ないご飯が少なくなり、下級生の

 子どもさんたちは大変でした。

 中には、その土地の人々がかわいそうだからといって時々

 ものをくれる方もあったようですがとても十分ではなかった

 のでした。


 お腹をこわして帰された子供さんが、元の学校へ行っても

 先生は1,2年生の先生だけでしたので、校内のあちこち

 でたむろして遊んでいたのです。 

 私の妹も返されたので、母が学業の不足を心配して、静岡

 の遠縁に頼んで、縁故疎開をさせましたが、妹は自分だけ、

 親に捨てられたと考えていたということでした。1

 1945年3月10日の東京大空襲では、せめて卒業式

 ぐらいは自分たちの学校でという当局の親心が仇になって

 疎開先から早めに引き上げてきた多くの六年生たちが亡く

 なったのです。




 子供さんたちだけでなく建物の強制疎開というのもありま

 した。軍用道路を作るとか、空襲の際に民家の火事が大事

 な建物にうつるといけないので、周りの民家に引越しを

 命令するということがあって、私は祖父の家の近くに

 円城寺敏子ちゃんというお友達があったのですが、前の

 日曜日に遊びに行ったときには敏子ちゃんと一緒に遊んで

 いたのに、その次に行ったときには、家は跡形もなく広い

 道路ができていたので、びっくりしたものです。



1945年5月29日[S.20)横浜大空襲
 
 この日だけではなく何回も空襲はあったのですが、

 横浜の大部分が焼けてしまったのがこの日でした。

 この日は朝から晴れ上がって気持ちのいい日でした。

 5時半ごろ警戒警報になりましたが、警戒警報では

 学校へ行くことになっていましたが、多くの学校で

 はこの日は大体、今日は横浜がやられそうだという

 ことを察知していて学校近くの停留所に先生方が待機

 しておられて、乗り物から降りる生徒たちに家に帰る

 ように命じられたそうでした。
  
 
 私の父は当時、常置将校として横浜の浦島が丘小学校

 に駐在していた部隊の副官だったのですが、一日おき

 に家に帰ってきていましたが、警戒警報ですぐ、自転車

 で隊へ戻りました。
  
 なかなか空襲にはなりませんでしたので、警戒警報中は

 学校へ行くことになっていたので、弟は学校へ行きました

 が、弘明寺の終点で先生に今日はどうも危ないからといわ

 れて折り返しの電車で帰ってきたのです。
  
“富士山頂をめがけて北上中の敵爆撃機約500機は富士山

 上空で方向を変え、西に向かった模様というラジオのアナ

 ウンスがあり、今日は名古屋か大阪かと思っていた矢先、

 がらがらがらっと大きな音がしてお隣のお庭に焼夷弾が

 炸裂しました。

 大きな物音に驚いて私がお隣を覗いたときには木で作られた

 塀の柱だけがめらめら燃え上がっていて、間にはめられていた

 板はすっかり燃え落ちて陰も形もありませんでした。
  
 その時、ラジオは“敵機は方向を変えて東上中と言っていました。
 

 一軒置いて隣の家に住んでいた伯母が大きな声で

 “富美ちゃん 逃げなさい”と声を掛けてくれているのが聞こえ

 ました。

 私と弟は、かねてから空襲の時には防空壕を埋めてから逃げろと、

 父に言われていたので、毎日水を掛けてたっぷり滲みこませて

 置いた古畳を引きずりながら、防空壕の扉の上に載せ、更に土を

 盛りましたが、なかなか父の言っていたように30センチを盛る

 ことは出来ず、あちこち、まだ、畳が見えている状態でしたが、

 周りが燃え始めていたので今はこれまでと逃げることにしたのです。

 私は父がいれば父が持つことになっていた大きなリュックサックを

 背負い、水筒や救急袋を提げて小さい弟をおんぶした母を助けて

 上の弟と4人で逃げましたが、途中で伯母たちと一緒になりました。

 もう道の両端に火がちょろちょろと燃えていたのですが、私たちは

 各家庭の前には必ず置くことになっていた防火用水の水を防空頭巾

 の上からかぶりながら海岸の方へ逃げていきました。

 ちょうど引き潮だったので、海の中へ入っていくことが出来たのです

 が、向こうの方から一年先輩のお嬢さんが真っ赤なかいまきを頭から

 かぶって出てきたのです。私の右隣にいた消防団員のおじさんが

 “お前、そんなものを捨ててこっちへ来い。敵機に銃撃されるぞ!”

 と怒鳴ったのです。

 私は非常に感動しました。そんな自分の命が危ないときに他人に注意を

 してあげる方があるなんてと思ったのです。

 そのうち伯母の姿が見えなくなり、いとこが泣き出しました。みんなで

 探しているうちにひょっこり伯母が出てきました。それから、すぐ近く

 の大里町の叔母の家に行ったのですが、幸い焼け残っていて泊めてもら

 えることになりました。

 そのうち空襲警報が解かれて、B29の大編隊が引き上げたと言うので,

 みんなで家の焼け跡を見に行きました。

 すべてのものが焼け落ちて何もない状態で柱だけがまだぶすぶすと燃え

 ていましたが、物置においてあった練炭の山が積んだままの姿で赤々

 と燃えていました。

 私の机の置いてあったあたりには辞書がそのままの形で燃えていました。
 
 そっと燃え残りの木の枝を拾ってページをめくると活字が光ってちゃん

 と読めるのです。

 其のまま持って行きたい思いに駆られました。

 その頃は紙がなく新しい辞書なんてとても手に入れられるなんて考えら

 れなかったのです。

 当時のアメリカの空襲はまず、フェイントを掛ける、つまり、方向転換

 をすると高射砲の準備がすぐに出来ないので、彼らはより安全に飛んで

 いけるということだったようです。当時、日本で一番優秀な高射砲は

 東京の久が原に一台あるだけだったようで、米軍の間ではなるべく久が原

 の上空へ近づかないように飛べという指示が出ていたそうです。

 上空一万メートルのあたりを飛行しているので、普通の高射砲の弾は届か

 ないのと、なかなか命中しないようでした。

 横浜のときなどでは、まず、横浜の周りに焼夷弾を落とし、更に真ん中に

 落としたので、外側と真ん中の両方から火に追われた人々もあったので、

 多くの焼死者が出たのです。

 当時、飛行場にあった飛行機は空襲になると飛び立つのですが、だんだん

 飛び立てる飛行機がなくなり、終には見せ掛けの木製のものも出てきました。

 翌日、親戚の家にお泊りに行っている妹の安否が心配になり、母に言われて、

 弟と二人で中区役所に勤めていた従姉弟たちを訪ねていくことになりました

 が、伯母が一年上の従姉をつけてくれ、三人で水筒を肩に出かけました。

 いいお天気でしたし、あちこちに火が、まだくすぶっているので、余計暑い

 ように感じながら、三人で本牧の大里町から桜木町までとぼとぼと歩いて

 いきました。

 途中、防空壕の中で一家が全滅した話を聞きましたし荷馬車が焼け焦げて

 残骸が残っていました。電車が線路の上で焼け爛れた姿もみました。

 水道の管が壊れて水がちょろちょろ流れていたり、若い女の人が、お巡り

 さんに抱きついて、家のものが亡くなったがどうしたらいいんでしょうと

 泣きついていたりしたのです。

 運良く従兄に出会え、みんな大岡川に入って、小さい従妹と、妹を川に

 浮かんでいた筏に乗せ、伯母と、大きい従姉が、胸まで泥水につかり、

 筏の上の子供たちに水を掛けてやり、助かることが出来たのだそうです。

 其の後、避難所の南太田小学校まで行くのに、焼け死なれた方々の

 ご遺体を跨いでいかなければいかれないほどのたくさんの方が亡くなって

 いたということでした。

 
 翌日は、父の安否を尋ねて行くことになり、朝早くから水筒だけを持って

 三人で出かけましたが、父の部隊が駐屯しているはずの浦島小学校は焼け

 て誰もいませんでした。一時は途方にくれましたが、会う人々に聞きなが

 ら歩いていきましたら、確か子安小学校に軍隊がいるようだと教えてくれ

 た方があり、早速尋ねていきましたら、父に会うことが出来ました。

 お昼だったので、下士官さんに、父が、この子達に何か食べ物をやって

 くれないかといってくれたので、すぐに、大きな真っ白い御飯にほんの少し

 の大麦が入ったお結びが一個づつとみかんの缶詰の冷凍したものと、更に

 太白というサツマイモの冷凍したものをいただくことが出来ました。

 そのおいしかったこと、当時は白米に押し麦がほんの少し入っただけの

 お結び何て見たこともないくらいで、私たちの御飯には、大麦、高粱、

 とうもろこしのかけたもの、乾燥芋、などいろいろなものが入っていて、

 お米粒はほんの少しだけと言ったものでしたから、本当にびっくりする

 やら嬉しいやら、特に太白の冷凍のものなんて食べたこともなく、当時

 からあんなに上手に冷凍の技術があったのに驚きました。

 下士官さんが、今から中央市場まで買いだしに行くからトラックに途中

 まででも乗っていきませんかと、声を掛けてくれたので、三人で乗せて

 もらい、中央市場から横浜まで、また歩いて行きましたが、焼け焦げた

 横浜駅を背に見た光景はなんとも恐ろしいものでした。

 ところどころに焼けたビルの残骸や焼け残ったビルがあり、見渡す限り

 の焼け野原が続き、たくさんの焼けぼっくいが、ぶすぶすと煙っていて、

 向こうの方に海が見えたのです。思わず息をのみました。

 三人が呆然としていたとき後ろの方で男の方々の声がしたのです。

“花園橋まで行きますが、トラックに乗って行きませんか?”

 地獄で仏という言葉がありますが、本当にそんな思いでした。

 人間て、こんな大変なときに他の人に優しく出来るなんて、すばらしい

 と思ったものです。


1945年(S20)8月6日 広島に原爆投下

1945年 (S20)8月9日 長崎に原爆投下

1945年8月14日 (S20)ポツダム宣言の受諾を連合国に通告し

8月15日、昭和天皇がラジオで終戦のご詔勅を日本国民に発表されて

戦争が終わりました。




ではでは戦争を回避するためにどうしたらいいでしょうか?

今はネットで世界の何処の国の人々ともお話できます。だから、

世界中の人々とネットで話し合ったり、仲良くすることも大事

だと思いますが、できれば、皆さん一人一人が小さな外交官に

なって欲しいのです。

たとえば、外人さんが

”こにちわ!“と言ったとします。

皆さん、ちゃんとした日本語だと思わなくてもにこっとして

其の外人さんを好きになるのではありませんか? 私は

こういう小さな積み重ねが何よりも大事だと思います。

今は学校の勉強で忙しいでしょうから、大学生になったら、

いろいろの言葉を勉強してください。

私はいろいろな外国語を勉強しています。でも、英語のほかは、

片言しか言えませんけれども、いろいろな外人さんと

いろいろな付き合い方をしています。 

イタリヤへ行った時には半年ぐらいイタリヤ語を勉強していき

ました。

行く前に夫が、朝日新聞のサッカーの世界ランキングというの

を見せてくれました。

イタリヤにいる間にサッカーのワールドカップでフランス・

イタリヤ戦があって、イタリヤが負けてしまったのです。

私が帰りのアリタリヤ航空機の中で見たのは、負けたことを

何日も引きずって、しょげ返っているイタリヤ人の乗務員たち

でした。明らかに、全員が元気がなかったので、私は

“イタリヤは世界でもっともサッカーで強い国ですよね”

と言ったのです。

そこにいた三人の乗務員ははっとした顔で私を見ました。

私は更に続けました。

“だって、サッカーで三回優勝して、三回準優勝しています”

と言ったのです。

たった半年のイタリヤ語勉強で、とてもちゃんとしたイタリヤ

語は言えませんでした。

でも確実に一人の日本人ばあさんの言葉を受け止めてくれたと

思います。

彼らの顔色がさっと変わり、三人とも、私のところへ飛んできて

握手、握手でした。そして、ワインを一本くれました。

なくなったら、もう一本あげるよって。

実は私のイタリヤ語は間違っていたのですが、彼らはそんなこと

には頓着せず、心から歓迎してくれました。

だから、間違ってもいいから、相手のことを考えて、ちゃんと

対応することだと思います。

ただ、特に中国語の時には、気をつける方がいいのです。

何故かといいますと私たちは漢字を知っているので、日本語の

漢字の意味と中国語の漢字の意味と同じだと考えてしまいがち

ですが、留守という感じがありますが、これは中国語では、必ず

家にいるということなのですが、日本では、不在という意味に

使います。又、中国人に手紙と書くとトイレットペーパーが出て

きます。手紙は中国語では“信”なのです。

ですから、自分は間違って漢字を使っているかもしれないという

いつも謙虚な気持ちを持って漢字を書く必要があります。

でも、言葉がすべてではないのです。

二、三年前に息子たちと北京へ行きました。其のとき、私の長男は

英語はぺらぺらですが、中国語は一言も知りませんでしたが、

運転席の隣に坐りこんで、ドライバーとずっと、日本語と英語と

中国語で何の滞りもなくしゃべって楽しんでいました。

と、言うことは、相手の気持ちを思いやって、優しい気持ちで、

対話すれば、きっといい交流ができるのです。そして、そういう

小さな私たちのお付き合いから世界中の平和がやってくるかもしれ

ないと私は思っています。



ありがとうございました。

本内容は、荒武千恵子(45期)さんのブログ(http://blog.goo.ne.jp/fujimi09/)より、2013年12月05日~12月10日に公開された、横浜市立中川小学校での戦争体験談講演会の内容を抜粋させていただきました。

2022年07月26日|公開:公開