2017年5月三木弘子さん(39期)から加藤会長あてにお手紙(下部写真)と手記をいただきました。三木さんは大学卒業後昭和20年に母校教諭として赴任、5月に横浜大空襲を体験しました。その後、洋裁を学び渡米、スポーツウェアのデザイナーとして活躍、7年前に市民権を返上し帰国されました。ご本人の了解を得て手記を真澄会報60号(2018年09月01日発刊)に掲載した内容と、その後日談を紹介いたします。
真澄会報60号(2018年09月01日発刊)は、こちら
真澄会会長加藤廉様、突然お便りを差し上げる失礼お許し下さいませ。 このたび戦後70余年になり色々と戦中戦後の話を耳にする度びに 横浜大空襲の時に私が母校平沼高校で体験した事、又、真澄会報57号上の横浜大空襲の記事を読みまして 今更乍ら当時を思い出し、この便りを書いてみました。
私たち39期卒業生第一回のクラス会の時、”心の池”の周囲にて写した写真が真澄会に飾られているとの話を伺い拝見に参りました。はい私も写っておりました。勿論それから何年も経っております。 50余年の渡米生活中にも度々日本を訪れる機会に恵まれ その時々に持ち帰ったアメリカ生活の写真、絵なども飾っていただき大変嬉しく思って居ります。
又、横浜空襲から守られた私の3年間在学中の誇り、胸に飾った横浜第一高女の校章も飾って頂いたとの友よりの知らせで知りました。
平沼高校!エレヴェーターのある学校、床の動く構堂から体操場に等、未だアメリカにはない高校の話題を持ち帰りアメリカの人々を驚かせて参りました。
現在は50余年のアメリカ生活から日本に戻り、古きよき横浜第一高女の友人達と月1回の会合を楽しんで居ります。
39回卒 三木弘子
昨2016年、平成28年12月28日安倍総理大臣がハワイを訪問しアメリカのオバマ大統領と一緒に英霊に祈りを捧げ、その後太平洋戰で戦った三人のアメリカ戦士達と会見し75年前に終りをとげた太平洋戦争を繰り返さぬことを約束しました。そしてその後、その戦争を知る人も少なくなっている最近の状報を聞き 私はその貴重な一人であることを痛感しました。それ故私はこの文を書いてみようと思いました。
私の学校生活は日本の国が戦争で始まり戦争で終わった年と苦しくも同じです。1932年(小学1年)満州事変〜1945年(大学卒業)太平洋戦争終結です。勿論小学生の時は何も知らず、何処かで戦争していると言う程度でした。然し出征兵士の壮行会などは覚えて居りますが。それがどんな大事になるなど考えた事もありませんでした。
無事女学校(神奈川県立横浜第一高等女学校、現高校です)県下一いや日本一の意識を持ち勉強に励みました。そして大学に入り、日々東京に通学する内に戦争が激しくなり、私達学生もただ通学して勉強するだけというより1週間の内5日は軍需工場で働き1日だけ学校に行き勉強する様になりました。その一日の嬉しかった事、とてもお伝えする事はできません。その内東京都内のアメリカ軍空襲が始まりました。毎日の通学というより通勤の途中、度々所謂防空壕に飛び込んで難を逃れる日が続きました。
ある時は新橋駅に近づいた時、眼前に艦載機からの銃撃弾が落ちてきて慌てて防空壕に飛び込み助かった事。帰宅の途中東海道線に乗っていた時に空襲があり電車は鶴見川の手前で止まってしまいました。私たちは電車を降り川の上の鉄橋をそれこそ恐る恐る這って一歩一歩と言うより1ヒザ1ヒザ渡り何とか対岸に着き それからも横浜駅までの線路の上を歩いて帰りました。その時の川の面の波の動きを今もはっきり覚えております。それからも毎日勉強でなく工場に働きまして一週間に1日の登校どんなに待ちわび喜んで勉強した事でしょう。 度々の空襲その他にも無事大学を卒業することが出来、そして母校平沼高校の教師となる事ができました。今迄とは異なった教師という生活にも少しずつ馴れて四月は無事にそして五月の末と言う29日に遂につあの横浜大空襲の日となりました。これからが私の便りを書く原因になったのです。
朝早く未だ職員室には私ともう一人、女の先生(お名前が出て参りません)しか居りませんでした。 すぐに”心の池”の側に机を出し看護に必要な品々を並べ血を流し飛び込んで来る生徒、近所の方達方の手当てを始めました。 幾人かの方々の出血を止め包帯を巻いたか覚えはありません。その間にも繰り返し飛んでくる米軍機でしたがやっと空襲は落ち着き空軍機の音は消えましたが周囲は”火の海”こういうのを”火の海”と言うのだなと後になって考えつきました。 一応空襲が終りましたので後から見えた先生方にお願いをして私たち二人は帰ることに致しました。勿論徒歩です。
道路には大勢の傷を負った方達が居り、真直ぐに歩いて帰れる状態ではありませんでした。藤棚から関東学院の下を通り越し京浜急行黄金町駅の方に下って行きましたが山の様に重なって亡くなっている方達、未だ息たえだえの方々の傍をさけるように歩いたのを覚えて居ります。周囲は異様な臭気が漂い今になって考えますと「地獄の沙汰」と言うのはこの様な事ではないかと思われます。焼け野原となった町を通り抜けやっと家(?)に着きました。そこには勿論家はなくあの美しかった庭木など後片もなく全部焼け金庫と庭の石燈篭が真っ赤な焔を上げてボーボーと音を立てて燃えて居りました。その時の私は人間感覚はなく、ただ呆然と立っていたのを覚えて居ります。その時お手伝いさんがバケツ1ケを持ち「お家を焼いてすみません」と帰って来ました。私はそんな事より彼女の無事を心から喜びました。そのあと父が車を用意してく下さり屏風ヶ浦の山手で焼けないでいた親類の家に行くことができました。
戦後71年、最近又、アメリカ、中国、北朝鮮の問題を耳にするにつけ、二度とあの様な経験などする事のない様祈ります。 (原文のまま掲載)
このお便りと手記がきっかけとなり、三木弘子さん(39期)は、2017年12月に開催された平和シンポジウムで講師として、生徒達に横浜大空襲のお話をされました。
平和シンポジウムの記事は、こちら
写真は平和シンポジウムで生徒たちに講演する三木弘子さん
さらに後日談があります。
2020年の7月、三木弘子さんは弟の斉藤清勝さん(53期)と共に母校を訪れ、歴史資料展示室と真澄会室を訪問しました。この時同時に学校に多額のご寄付もしてくださいました。 その時の写真です。鑪校長と佐藤副校長、真澄会理事らと撮影しました。