三度目の平沼 -2-/真澄会会長(当時) 鈴木宏司(59期)

三度目の平沼 ―2―
~生徒、教員、真澄会~

真澄会会長 鈴木 宏司


(1)  新しい校長先生

  横浜平沼高校は今年で創立112年目です。この4月、長い歴史の中で初めて同窓の校長先生(小野力・71期・第29代)を迎えることが出来ました。同窓会としては大変に嬉しい出来事です。保健体育科の先生らしく、元気一杯のスカっとした人柄は、わが母校に清新な風を送り込んでくれるものとおおいに期待を寄せているのです。真澄会としても、贔屓の引き倒しにならぬよう気を配りながら、校長先生をしっかりと支えていかねばならないと考えております。

(2)  校歌祭

  次に、今年は真澄会にとって重たい役割を担う年でした。それは「青春かながわ校歌祭」の主管校(企画・運営を担う)になったことです。校歌祭というのは、県下の高校の同窓会員が一堂に会し、生徒と一緒になって、高校ごと順番に、母校の校歌、応援歌等を合唱する催しです。念の為、「かながわ校歌祭振興会会則」の目的の項を記すと、「本会は、神奈川県内の新制高等学校及び旧制中学校等の校歌・応援歌などの伝承及び振興を図るとともに、卒業生と在校生との交流に努め、併せて会員相互の親睦を増進することを目的とする。」というものです。今年で第7回目となり、11月25日に神奈川芸術劇場で行われました。参加はいつも20数校程度で、今回は25校でした。真澄会は在校生有志を交えた合唱団を編成して毎年参加していますが、その歌唱力・結束力が群を抜いて素晴らしく、毎回のように会場を沸かせ、高い評価を得ています。来年も9月28日(土)紅葉坂にある県立青少年ホールで開催されます。在校生の皆さん!卒業生の皆さん!是非、合唱団に加わり、共に歌うことを通してOB・OGと交流してみてください。きっと何かしら得るところがあると確信します。期待していますよ。

(3)  高校生活

  さて、一昨年の「花橘」には同じタイトルで平沼高校での教員時代のことを書きましたので、今回は記憶定かでないところ多々ありますが、生徒時代のことを書きます。

ア、昭和34年頃の様子

  平沼での高校生活は1959年(昭和34年)4月からの3年間でしたが、まずはこの頃の状況を記してみたいと思います。入学した昭和34年度の公立高校の数は58校(平成24年度は158校)、私立高校63校(〃78校)で、生徒数は公立で約58,500人(〃132,600人)、私立で55,000人(〃68,500人)でした。当時の高校進学率は約65%で、現在の約98%に比べてかなり低かった時代です。また、学区は横浜が小学区で(11学区)、他は中学区(8学区)の全県19学区で、現在の全県1区と大きく異なっていました。小学区制とは、端的な言い方をすると、中学校によって進学する高校が決まっていたというものです。入試方法は、(1)指導要録(中学校の成績等)(2)アチーブメント・テスト(中学校時代に行う県下一斉学力テスト)(3)能力判定検査(高校側で行う一種の知能検査)の3本立てで、どのような比重の掛け方であったかは分かりません。
  さて、私たちの学年は男子213名、女子234名、計447名でした。1クラスは約50名の9クラス編成で、女子のクラス(女クラ)があったのは2年生の時だけのように思います。
  入学早々に撮ったクラス集合写真を何十年ぶりかで見てみると、そこには学年がひとつ上ではないかと思わせる、清楚で賢く、そして凛とした雰囲気を持った女子生徒が並んでいます。その制服姿は正に平沼の伝統を体現している感じです。いっぽう、男子は25名中13名が坊主頭で素朴な感じです。しかし、全員意志が強そうでしっかりとした顔つきをしています。その中には、中学校時代からの習慣で、腰に手拭をぶら下げていた者もいるし、“高校はもう通信簿などは無い”と親を納得させた豪の者もいます。また、ある一時期にはクラスのほとんどの者が学帽をかぶり下駄履きで通ったりもしました。戦後十数年経っていましたが、まだ旧制の香が残る時代で、現在の平高生には想像がつかないかもしれません。
  次に、当時の社会の様子を、年表に載っている語句をいくつか羅列することで示しますと、安保闘争、国民所得倍増計画、岩戸景気、皇太子(現天皇)の御成婚、三井三池争議、カラーテレビ本放送、ソ連宇宙船地球一周飛行、インスタントコーヒー発売…等々です。そして、王、長島がスーパースターへの道を歩み始めた時です。これらの語句の中に明日への希望と、そして新しいものが生み出されるときの苦しみが垣間見えるような気がします。

イ、平高生活

  私の平沼での3年間は実に冴えないものでした。中学3年の時に健康を害したのが尾を引いて、体と相談しながらの学校生活だったからです。1年生半ばくらいまでは体育の授業は見学、2年次の修学旅行は参加していません。好きな野球も出来ず、平翠戦でも四季別運動会でも特別な働きをしたという記憶はありません。しかし、暗い高校生活という訳でもなく、結構楽しい毎日を送っていた気がします。それは友達が、先輩達、先生方が、そして学校の雰囲気がとても良かったからだと思います。後年教員となり、高校時代出来なかった野球を、生徒と一緒にひたすらやることで出来たし、母校に戻っては後輩達と充実した教員生活を送れたこともあって、平沼高校には全く負の感じを持ちません。
  さて、この冴えない高校時代に印象に残っていることを一つ書きます。
  第11代校長、香川幹一先生は誠に痛快な方でした。サッカーの校内競技大会では、教職員チームの中心として、豆タックのような体に珍妙な運動着をまとい、グランド一杯に走り回るのです。上手くいった時の嬉しそうな顔、拙かった時の悔しそうな仕草、これが何とも云えず愛嬌があって、周りで観戦している生徒はヤンヤの喝采でした。
  集会でのお話も楽しいものでした。時々、ベランメー調になったりしながら、趣旨を簡単明瞭に話されたのですが、特にその短さが生徒には大好評でした。
  一度だけ、“お前達は俺の顔に泥を塗った”と激怒されたことがあります。それは、体育関係部室が完成したときのことで、最終チェックを受けるべく県の人を案内したところ、こともあろうに真っ白い部室の壁にくっきりと足跡がついていたのです。即刻に全校生徒が集められて上記の一喝を受けたのであります。先生は、生徒のためと思い、県に何度も足を運び、やっとのことで完成を迎えたのでしょう。体育館内が凍りついたようにシーンとなったのを覚えています。
  もうひとつ。先生の在任中の時だけだったと思いますが、校内実力テスト上位50位の人の名前とその得点が講堂に張り出されたことがありました。皆ビックリ仰天でした。先生は生徒を驚かすのがきっと楽しかったのでしょう。学校に生徒に刺激と活力を与え続けた1年と8ヵ月であったように思います。
  私は大学を卒業後、平沼時代の恩師大森賢三先生(物理を担当。総合教育センターの開設に携わった後、厚木高校長にて退職)のご紹介で、再び香川先生にお会いすることができ、先生のご存命中は親しくご厚誼いただきました。例の簡潔明瞭で単刀直入な物言いは相変わらずで、“難しくても何とかせい!”“いますぐやろう!”などと、よくハッパをかけられましたが、反面、大変神経細やかで、常にユーモアを絶やさなかった硬軟併せ持った方でした。お亡くなりになって20年以上になりますが、いまでも先生を敬愛して止みません。

  *高校数などの数字の部分は、県の学校基本調査および県立高等学校長会の資料から引用しました。

「花橘 第63号2012年度」

2021年03月02日|公開:公開