青春のプロローグ
真澄会 石渡祥男(57期)
横浜駅西口
昭和32年10月横浜駅、東横線のホームは一段高い三階にあり他の線のホームが見渡せた。駅ビル工事中の朝の雑踏をすり抜け改札を出ると目の前には何もない。駅前広場の先には沢渡のなだらかな丘陵地の中腹に建つ女子高の校舎が良く見える。駅前広場は南側に来年オープン予定の高島屋デパートが建築中で西や北面には商店と民家だけが点在し、高層建物は見ることは出来ない。駅前広場は資材置き場で雑然と置かれた建設資材や砂利の山が、何か所にも積み上げられ、傍に錆びたベルトコンベアがぽつんと置かれている。建築中の高島屋の工事現場からは時折金属を切断するカッターの音や荷下ろし用のウインチのモーターの起動音が聞こえるだけで静かな空間を作っている。
「名品街」と「五番街」
工事中の高島屋の角から平行に「名品街」が約150メートル続いており、広い歩行通路を挟み両側に化粧品、衣料品、嗜好品等を販売する店は昼間から人の出入りが激しく賑わっている。このころは公衆電話が少なく何店かの店先に10円硬貨専用の委託公衆電話機(赤電話)が置かれており、平沼校合格の知らせを父の職場にここから報告したことを今でも鮮明に覚えている。また、ここにレストラン「小西」という洋食店があり階段をのぼり店内に入ると揃いのユニフォームの女性が我々学生にも笑顔で迎えてくれる明るい店だった。僕はこのレストランで生まれて初めて洋風麺「スパゲティナポリタン」なる物を食した。僕の母の手料理メニューにはない食べ物だった。母は山梨の発電所のある小さな町で生まれ育ってきたので洋食は全くと言ってよいほど作ったことがなかったのだと思う、父がみやげに頂いてきた「焼豚」を煮て食卓に出したというお笑いのエピソードがあるほどだ。
「ナポリタン」はトマトケチャップと日本の洋食文化が出会い、大衆食となったようだがとにかく僕にとっては驚くほど、色合いやソーセージ、ピーマン等の食材が口の中で噛み合わされて今まで味わったことのない香りと旨味が口の中いっぱいに広がり、美味しかったなー。タバスコなる香辛料をかけ、食べ始めたが大きく咳き込み皆に笑われ、それ以来タバスコは口にしない。
「名品街」を抜けると左手に高島屋デパートの仮店舗「高島屋ストアー」が通路に張り出した飾り棚に販売品を並べて営業している。ストアーから帷子川分水路に架かる「南幸橋」までの一帯(現在「五番街」)は食堂、居酒屋、キャバレー、ダンスホールが林立し大人の夜の憩いの場になっている。その一角に3店の喫茶店「白樺」「上高地」と「田園」があり、通学路の途中にあるので下校時に部活仲間と打合せ場所として時々利用している。
南幸橋を渡り平沼高校に向かう道は二方向に分かれるが岡野町交差点までの町並みは建設工事中の西口付近とは大きく変わり静かなたたずまいの住宅地となり、魚屋、花屋、医者、etc、住民の日常生活に必要な店だけがゆっくりと動いている感じの街づくりになっている。
交差点を直進すると左にグランドとコンクリート造りの建物が視界に入ってくる。更に少し進み四つ角を左折するとそこが平沼校通用門だ。生徒は正門ではなくこの通用門から校舎に入るのを常としている。
高校生活はこの門から始まりそして卒業していったのだ。
バレーボール部
入学してすぐに中学から頑張ってきたバレーボール部に入部しブラスバンドにも顔を出すようになった。バレーボール部の練習は部員が少なく週三くらいで屋外のコートの石拾いを30分してから先輩のきつい指導が始まるが我慢、我慢の一時間?うさぎ跳び3周で終わり。
しかし女子部の大会が迫ってくると我々は顧問の先生から招集がかかり、女子の練習相手になりレシーブを担いスパイカーの打球を拾いまくらなければならなかった。
女子は県下では強豪校として知られておりY顧問の指導は男子にはない厳しさがあり叱咤の大声がグランドいっぱいに響きわたるので我々もレシーブミスは許されないムードがあり緊張感が漂い、普段できない良い練習になったのは言うまでもないが、他校との練習試合が組まれることはまれで、月日が経つと上級生の参加が減り夏休みが明けた頃には、我々1年生が目立つようになり自分も部の活動内容に疑問を持ち段々と顔を出すことが減り、更に疎ましくなっていった。
不思議な下駄箱
入学して3ヶ月が経ったある日の下校時、上履きを下駄箱の靴に履き替え校舎を出た時突然「いしわたさーん」と女性の透き通るような綺麗な声がした。辺りをキョロキョロ見廻したが誰もいない、更に「いしわたさーん」と今度は頭上から追い打ちをかけるような大声が聞こえた。思わず振り返り、上を見ると2階の教室の窓が開き2人の女性と男性1人の姿が窺えた。女性の2人は見覚えがあった、廊下ですれ違ったことがあり、いつも2人で行動していたようなので同期で女子クラスだと分かっていたが名前は知らない。
2人のうちウエーブの掛かった髪をした女子が「演劇部に入ってください」「部員が少なくて困っています」「特に男性が」と用件だけを一気にサラッと言った。笑顔とえくぼが可愛くて印象的だった。
後日の放課後、彼女の名前が『小高美幸』(仮名) と判ったのは僕のこれからの人生において、人前で演技をすることなど微塵もあり得ない事なので断わるために指定された校舎2階の演劇部室に向った時だった。
雑然とした部屋に置かれた、壊れそうな木の椅子に腰かけて自己紹介をすると「あなたの事、知っています、有名だから」と言って、同席していたもう1人の女性と顔を合わせてけらけら笑った。「有名?」どうやら中学校時代の行状を誰かに聞いたことらしいが、いちいち否定や説明も面倒くさいし、今日入部を断れば彼女とも関係なくなるから何の反応も示さなかった。しかし、ちょっと気になる彼女だった。笑顔と、えくぼは変わらなかったが日焼けした健康的な顔をよく見ると、たくさんのそばかすが目と鼻の周りに有り、彼女の印象をより魅力的に強く僕の心の奥にしまい込ませた。
同じく同席していた男子生徒は1学年上の演劇部部長の工藤堅太郎さんで、後にテレビ映画で「夕日と拳銃」に主役デビューされた方で熱心に演劇の楽しさを話してくれた。
これが彼女との最初の出会いだが、このまま終わりにはならなかった。演劇部には背を向けた僕だが相談事や部活の事等で教室や下校時に彼女と一緒になることが増えた。
この時代メディアからの情報などなくて、愛とか恋など互いに口にすることはない普通の高校生だったから手を繋ぐことさえなかった、ただ傍にいて話すことが嬉しかったし、楽しかった。3年生の夏まで続いた「11冊の交換日記」が下駄箱を通して2人の手元に渡るようになったのはそれから間もなくの事だった。
この下駄箱は三年の間に色々な出来事の仲介役を演じてくれた不思議な存在だった。
僕の青春はこうして始まりエピローグを間もなく迎えるのであった。
「花橘 第70号2019年度」