花橘52号 連載(4) 瀧井敬子さん(62期)東京藝大助手、音楽評論家

2001年度の先輩セミナー

①6月28日(木)3校時 14組
 篠崎孝子さん(45期)有隣堂会長
②6月29日(金)6校時 15組
 小泉正昭さん(54期)TBS記者、アナウンサー
③9月12日(水)3校時 13組
 梅沢慎司さん(54期)小学館専務取締役
④10月4日(木)6校時 17組
 瀧井敬子さん(62期)東京藝大助手、音楽評論家
⑤10月23日(火)6校時 16組
 間瀬勝一さん(60期)テアトルフォンテ館長、舞台監督
⑥10月31日(水)6校時 12組
 遠藤ふき子さん(61期)NHKアナウンサー
⑦11月6日(火)6校時 11組
 吉田孝古麿さん(50期)合唱団指導者




瀧井敬子さん(62期、東京藝大助手、音楽評論家)

❋この稿は生徒の感想文の読後、瀧井氏より寄稿していただいたものです。

「母校の校歌に誇りをもてる幸せ」

 鳥本鉄心先生から届いた受講生の皆さんの感想文では、「平沼の校歌を作った幸田延さんがこれほどすごい人だと知って驚いた」とか、「三味線やバイオリンやピアノの生演奏を聴いて、幸田延さんのすごさが実感できた」とかいう内容のものが3分の2以上もありました。
 作詞家佐佐木信綱については、皆さんのご両親の世代の方はよくご存知で、明治・大正・昭和の三代に活躍した歌人および国文学者と記憶されているでしょう。
 しかし作曲者の幸田延については、彼女の偉大さがまだ一般には正しく理解されていません。わが国の洋楽草創期の音楽家といえば、瀧廉太郎と相場が決まっていますが実は彼女こそ、日本人の芸術家教育の立ち上げに一番の功績を残した人なのです。
 幸田延は音楽分野における一番最初の国費留学生でした。今でこそ、海外へ行きやすくなって、留学と言ってもあまり有り難みがないように見えます。しかし、明治時代に国費留学をするというのは、一部のエリートにのみ許された最高に名誉なことでした。ましてや、「富国強兵」をスローガンにしていた明治政府です。音楽部門の女性を留学生に決定したことは、異例の英断だったと言わねばなりません。幸田延の兄は『五重塔』で有名な文豪、露伴ですが、プライドの高い彼ですら、妹の留学を手放しで喜びそれを誇りにしていたことは、当時発表された著作類から垣間見ることができます。
 幸田延は、弱冠数え19歳という、今の高校2年生の年齢で横浜港を出発して、6年半以上も海外で学び、しかも名門ウイーン音楽院を優秀な成績で卒業しました。
 瀧廉太郎は幸田延に憧れ、彼女の帰国早々から薫陶を受け、ピアノと作曲の勉強に励んだのです。
 平沼の校歌と『荒城の月』の出だしは酷似していると言われますが、幸田延が瀧廉太郎のモチーフを剽窃することなどあり得ないことです。そもそも弟子の『荒城の月』の価値を認めて、東京音楽学校の大事業である『中学唱歌集』刊行(明治34年)に際して、所収を決めた選考委員の中心人物が、ほかならぬ幸田延でした。彼女は当時、教授陣の中でも最も権勢を誇っていました。
 のちに、幸田延は佐佐木信綱と共に第1回芸術院会員に選出されます。このようないわゆるゴールデンコンビによる校歌は、平沼高校の財産です。短調に始まり、転調も多く、校歌にしては芸術的すぎように思われますが、それだけ歌えば歌うほど味わい深いものになるのです。
 感想文には、さらに、「こんなすごい人に作ってもらったのは、平沼の誇りだと思った」とか、「平沼ってすごいんだという思いを強くした」とか書かれたのがありました。そうです。歌う甲斐のある校歌なのです。私たちのは。


2021年11月16日|公開:公開