花橘52号 連載(1) 先輩セミナー2001 篠崎孝子さん(45期) 有隣堂会長

2001年度の先輩セミナー

歴史資料整理委員会 鳥本鉄心

 百周年事業の中でユニークな位置を占めた「先輩セミナー」は、本校全23学級に23人の卒業生をお招きして好評のうちに終了したが、本年は「校史教育」の一環として1年生7学級を対象に、下記のラインアップで実施した。今回は特に、可能な限り生徒に感想文を書いてもらい、極力それらを講師に送り、さらにその感想をいただく工夫をした。以下に、それぞれのセミナーの概要をお示しする。
 なお、最初に行った篠崎孝子氏の回の分については、講演内容をできるだけ再現し、生徒の感想文も載せた。
 本校は学校の特色として「校史教育」をうたっている唯一の伝統校である。「先輩セミナー」のほかにも、学校の歴史をコンパクトにまとめた真澄会編VTR「100年のあゆみ」を上映し、委員が解説を加えた。校史を通して、日本の近代、横浜の百年を俯瞰し、生徒に"現在"をとらえ直す機会を与えるのがねらいである。
 今後もこれらの企画の占める位置はますます大きくなろう。

①6月28日(木)3校時 14組
 篠崎孝子さん(45期)有隣堂会長
②6月29日(金)6校時 15組
 小泉正昭さん(54期)TBS記者、アナウンサー
③9月12日(水)3校時 13組
 梅沢慎司さん(54期)小学館専務取締役
④10月4日(木)6校時 17組
 瀧井敬子さん(62期)東京藝大助手、音楽評論家
⑤10月23日(火)6校時 16組
 間瀬勝一さん(60期)テアトルフォンテ館長、舞台監督
⑥10月31日(水)6校時 12組
 遠藤ふき子さん(61期)NHKアナウンサー
⑦11月6日(火)6校時 11組
 吉田孝古麿さん(50期)合唱団指導者


母校からの贈り物

篠崎孝子さん(45期、有隣堂会長)

 お早ようございます。今日は皆さんにお会いするのを楽しみにして来ました。でも、教壇でお話するのは初めてなんで、正直なところ少し怖くもあります。どうぞよろしく。

宝物の数かず
 数年前に若者から、とっても大切なことを教えられました。有隣堂での出来ごとです。新入社員の受入れ教育が終わり、彼らのレポートを読みました。すると短大卒の女性社員のに「あなたは有隣堂で宝物をもらった人だと思いました」って書いてあるんです。ショックでしたねえ。それまで会社に対して感謝の気持なんてコレッポッチも持ってなかった。まさに「目からウロコが落ちた」気分でした。これをきっかけに、私は自分の人生を謙虚に見なおしました。そして有隣堂以外からもさまざまな宝物をいただいている事に、はじめて気がついたんです。

校庭に畑とプール
 その宝物のひとつは、戦争中の体験です。一番ひどかった時期、私はこの学校の生徒でした。飢えと空襲と勤労動員。そして敗戦を境に、日本人の価値観が根底からひっくり返った時期です。
 太平洋戦争は昭和16(1941)年に開始、20(45)年に敗けました。私は昭和18(1943)年に第一高女に入学し、23(48)年に5年生で卒業しました。
 1年生の正課には"農業"がありました。テニスコート(今とほぼ同じ場所)を畑にしたんです。その頃、日本のお手洗いって、ほとんどが便器の下に穴を掘り、排泄物を溜める方式でした。それを"汲みとり屋さん"が定期的に集めに来ます。これ"下肥え"といって、当時はとっても大切な肥料だったんです。学校の畑でも、下肥えを肥料に使いました。畑のすみに深い"肥え溜め"があり、それを大きいひしゃくで汲んで畑に撒きます。農業の時間中、友だちの一人がうっかり肥溜めに片足を入れてしまい、つけ根までドボドボッと漬かった光景、今もおぼえています。ご本人も周囲も、みんなシーンとしちゃいました。
 当時、成績表の評価は「優・良・可」方式でした。私、農業だけはその上の「秀」だったんですよ。ほかの子のように「汚い、臭い」なんてブータレなかったからじゃないかな。多分、私には農耕民族の血が色濃く流れているんでしょうね。そんな事、大して気にもならなかった。今でも休日は、伊豆の山荘で畑を耕しています。野良仕事という最高の趣味を持てたのは、まさに学校のおかげです。
 1年生の時、25メートルのプールを掘りました。空襲の時の防火用水をかねていたんだと思います。全校生徒の手掘りですよ。ツルハシで土を起こし、シャベルで掬ってモッコ(わかりますか?)に入れる。それに天秤棒を通して二人で担いで決められた場所まで運ぶんです。後は、大人がセメントを塗って完成させんじゃないかな。
 終戦後間もなく、このプールで練習を積んだ生徒たちが水泳界で大活躍しました。クラスメイトの八木文枝さんはたしか、国体・平泳ぎの部で3位に入賞したと思います。あのプールが無くなったのは残念だし、淋しいですね。

ハラペコ体験
 次は食糧不足、飢えについてです。私たちと皆さんの世代はいろいろな面で違いが大きいけれど、最大の違いは"飢餓"対"飽食"ではないかと思います。飢えの辛さって、体験しないとわかりませんよ。主食の配給制度はあったけれど、お米なんて全然配られない。麦・芋類とか大豆油の搾りカス、通称"豆カス"とかね。豆カスを食べるとさかんにオナラが出るんで、あの頃は電車の中がいつも臭かった。その他、カボチャやサツマイモの茎や葉とか、道ばたの雑草とか。口に入るものなら何でも、っていう生活でした。夜、布団に入ってもお腹が空いて眠れない。暗闇の中で「アイスクリーム、大きいスプーンに山盛りすくって食べたいな」「どんぶり一杯の苺ミルク……」なんて、真剣に考えていました。
 「衣食足りて礼節を知る」って、ほんとですよ。あの頃市内を走る電車の中では、何時も誰かがケンカしてました。実にささいなことでね。戦後は、占領軍の兵舎から残飯(食べ残し)を集め、これを食べさせる店も現れました。私も神田駅近くの闇市場で立ち食いしたことがあります。その時、どんぶりの中からカーキ色のボタンが出てきたんですよ。でも、久しぶりに栄養たっぷりの食事ができて、とってもしあわせだった。
 3年になった頃から、朝家を出る頃になると警戒警報が鳴るようになりました。警戒警報って「敵機の襲来を警戒せよ」というサインで、ウ~ってサイレンが鳴る。すると学校はお休みになるんです。ところが終日家にいても中はカラッポ。空襲に備え、大切なものは殆ど田舎へ運んでしまって、あるのは本だけ。これ、うちの商売だからね。おなかは空いているし、ほかにする事もない。生涯を通じてあれほど無心に読書した時期はありませんでしたね。"日本・世界文学全集"なんかを端から読んだ。ほんとに貴重な体験をしました。

横浜大空襲
 昭和20(1945)年5月29日は横浜大空襲の日です。米軍のB29という重爆撃機が、何と517機も飛来しました。それとP51戦闘機が101機です。
 私は伊勢佐木町の有隣堂にいました。山手方面から編隊を組んで凄い音で飛んできたのは、幾つかに分かれた内の1グループだったそうですが、あれほどの数の飛行機は、多分死ぬまで二度を見ることな無いでしょうね。ちょうどカスリ模様(男の人の着物のがら)のように、青い空に黒い点々が整然と飛んできました。間もなく凄まじい夕立のような音と共に焼夷弾が降ってきました。
 あの日、横浜市内に投下された焼夷弾は大小あわせて約40数万個。わずか1時間あまりの間に落として全市を焼け野原にしたんです。もち論、私の家も例外じゃありません。本牧・三渓園の近くにあった住まいも、伊勢佐木町の店も、あっと言う間にすべて灰になりました。

勤労動員
 横浜が焼けて間もなく、6月はじめに勤労動員令が下り、京浜急行線の金沢文庫駅と八景駅の間にあった"海軍航空技術廠支廠"で敗戦の日まで働きました。仕事は、簡単に言えば見習い工でしたね。
 家が焼けて住む所がない生徒たちは、近くの釜利谷という所にあった2階建て木造バラックの寮に住み込みました。当時はほとんど毎晩、夜中になると空襲警報が鳴るんです。でも警報ズレしてる私たちは、なかなか起きない。その内スピーカーで「起きろっ」って怒鳴られ、しぶしぶ近くの崖に掘られた防空壕まで行きました。
 深夜になって警報が解除になり、部屋に戻ってやっと布団に入ると、そこにはノミの大軍が待ちかまえています。何十匹もが一斉に体のあちこちに取りついて血を吸いだすんです。吸われた皮膚はピンク色。それがだんだん紫色、次にねずみ色に変わっていく。それを毎晩上から上からやられるんで、ついには身体中が不気味なまだら模様になってね。おまけにパジャマの裏は、ノミの糞で黒ゴマを撒いたようなありさまでした。ノミの他、シラミ・ウジ虫にも攻められました。
 ここでも超ハラペコの日々でしたね。食事時間になると、バケツを下げて少し離れた調理場に行き、塩気もロクにない、お湯みたいな雑炊を入れて貰う。ところが、地方から来ている他校の生徒たちには、大釜の底の部分、穀物がよどんでドロリとしている部分が配られるんですよ。多分、田舎のおうちから食べものなんかを送ってくる。そのおすそ分けが回ってたんじゃないかな。でも都会で焼け出された私たちには、そんなものありませんからね。ある日、工場から帰ってきた友だちが畳にドターッと仰向けになり、か細い声で「お塩がなめたいよ~」って言っていた姿が目に浮かびます。

終戦の日
 昭和20年8月15日の正午、全員が広場に整列。直立不動の姿勢で、生まれてはじめてラジオから流れる天皇のお声(玉音)を聞きました。ところがスピーカーがビービーガーガー鳴るばかりで、お話はほとんど聞き取れなかった。しかし大人たちは理解したようで、彼らから「日本は負けたんだ」と聞かされ、みんなその場で声をあげて泣きました。あなた達には信じられないだろうけれど、その頃の我われは完全にマインドコントロールされていたんですよ。「お国のため、天皇陛下のために命を捧げるのは当然」と思い込んでいました。また「日本は神の国なんだから、最後には必ず神風が吹く。勝つに決まってる」と信じきっていたんです。

手の裏を返した大人たち
 2日後くらいに、家族の疎開先・湯河原に帰りました。栄養不足が原因で私の口のまわりはオデキだらけ。マスクで隠したくても、耳の後ろもオデキなんでゴムをかけられない。母からしばらく学校を休むように言われ、11月になってから終戦後はじめて登校しました。いやあ、驚きました。世界が180度ひっくりかえってたんです。その時私は3年生でしたから、頭脳はすでに大人なみですよね。一方、感情面は純心で妥協することを知りません。ですから大人たちの変貌ぶりが許せなくて、あちこちに怒りをぶつけていました。

勉強に熱中
 翌昭和21年に憲法が大改正され、現在の平和憲法が生まれました。この新憲法で女性の扱いも180度変わり、やっと一人前の人間として認められるようになったんです。これまで女性には固く扉を閉ざしていた、有名大学の扉も大きく開かれることになりました。「これからは勉強さえすれば、帝大(東大)にだって入れるんだぞ」ということで、皆本気で勉強しましたね。しかし、女学校での3年間についた男女の学力差は、想像以上に大きかった。結局、我われの学年では無理でしたね。(チャイム)
 あ、残念。時間切れになってしまった。この先、まだお話したい大切な事があるんだけれど、今日はここまでにします。ありがとうございました。

篠崎孝子さんのお話を聞いて

14組生徒の感想文から

  • セミナーというからとても堅苦しい内容だろうと思っていたけれど、とても楽しくわかりやすく話して下さいました。平沼の百年の歴史と聞いても、パッとしなかった私ですが、まだ女学校時代だった頃の話しを聞いて少し触れられた気がします。やっぱり長い歴史で戦争時代の話しを聞いていると良い意味でワクワクしました。それは篠崎さんの話し方のせいもあると思います。どんなことをしていたのか気になって短い時間だったのが残念でした。
  • 堅苦しい話なのかと思っていたら、意外にも面白い話だった。昔の、しかも戦争のころの話は大切だとは思うけれど、聞いていると眠くなるはずなのに今日は全然眠くなかった。話の内容が具体的で分かりやすく、楽しかったので1時間がすぐに過ぎてしまった。とても有意義な時間だった。機会があれば、もっと色々な話を聞かせて欲しいと思う。
  • 戦争中の学校や生活の様子が、よくわかってよかった。戦争中の食糧難や、労働条件の悪さなどは、本で読んだことがあったが、話を聞くことでより理解できた。戦後の話も少し入れてほしかった。
  • 一番おどろいたことは、空襲警報がなっても疲れていると、なかなか避難をしないということでした。空襲警報がなるとみんな一斉にあわてて避難するのかと思っていたので意外でした。いつも警報がなっていると慣れてしまうのかなと思いました。でも、その慣れはこわいなと思いました。飢えについての話も心に残りました。電車の中ではケンカがたえなかったというのを聞いて、どんなにみんながお腹をすかしているのかがよくわかりました。
  • 私は、最後の、女子も東大に行くことができるようになったという話のときの「そのときは勉強が楽しかった」という言葉が印象に残りました。それだけそれまでの男女差別が大きかったんだということを感じました。それより前の戦争中の話も、教科書みたいな話じゃなくて、生活の話がいっぱい聞けてよかったと思います。それから、ちゃんとした情報を知らないでいるのはとても恐いことだと思いました。私にはよくわからないけれど、アメリカの戦闘機の「強さ」とかを知らなかったから、たくさんの人が死んでしまったのではないかと思います。私たちは「飢え」を知らないし、これからも知りたいとは思わないけれど、日本にもそういう時代があったことを忘れないようにしたいです。
  • 篠崎さんは行動力がありそうで、リーダーシップみたいなものを感じた。お話は、めったに生で聞けないことがたくさんあって良かった。日本の激動の時代に高校生活を送った篠崎さんは、大変だっただろう。自分は、空腹で死にそうになる経験なんてないけど、これからも多分、送らないだろうが、つらいだろうな。あと、昔の女性の地位が認められなかった時の話などは、よく自分自身が知らなかったから、聞けて視野が広がったと思う。
  • 私たちの大先輩からのお話が聞けると聞いて、私の中では、ワクワクしてもいましたが、どこか期待ができませんでした。しかしドアがひらくと、にっこりと笑った女性が立っていました。そう、ちょうど私の祖母ぐらいの年齢の方が入ってきました。話し出すと、これがまたテンポの良い話で、自分は話の中へ入っていきました。正直いって、百周年の学校といっても私の中では想像できませんでしたが、篠崎さんのお話がとてもみぢかに感じました。戦争時代を生き抜いた篠崎さんは、「つらい」とか「苦労」という面を出さず、そっと宝物を包みこむように話をしていました。1時間という短い中の小さな物語だけど大きなイベントでもありました。また機会があったら、お話を聞かせていただけたらと思っています。
  • 篠崎さんの話をきいて、この学校にも、そんな頃があったということを初めて知りました。101年も続いていれば、戦争のあったときも、この学校は建っていたということは、考えてみればすぐにわかることなのですが、私はそのことを今まで一度も考えたことがありませんでした。けれど、私達がまだ一度も経験したことのない戦争を体験した篠崎さんの言葉には、とても説得力があって、いろいろと考えさせられました。私は、戦争のことなど、もう二度と思い出したくないと、皆が思っていると思っていましたが、篠崎さんは、戦争の体験を、宝物だとおっしゃいました。その言葉にびっくりして、そして感動しました。
  • 有隣堂の会長だというので、頭のかたい、とっつきにくそうな人なのかなと思っていたら、とてもおもしろい人で驚きました。しゃべり方もお話もつい聞き入ってしまう程たのしかったです。でも内容は、私たちにとっては興味深い話でも、会長さんにとっては、あまり思い出したくない事ではないかなと思いました。寝ているときにノミが体中を動きまわっていた事とか、トイレに虫がたくさんいた事とか、話を聞くだけでも気持ち悪いのに、それを実際に体験したのだから、ものすごい苦しみを味わってきたんだと思いました。私たちの今のめぐまれた生活は、会長さんたちのような苦しみを味わってきた人がいたからこそ、あるのではないかと考えさせられました。
  • 篠崎さんは平沼が女学校だった頃の生徒だったという事で、私達が今通っているこの学校の生活とは全然違う話がきけておもしろく興味深かったです。戦争中はほとんど授業が無かったり、工場へ働きに行かされたり…今では考えられないような感じでした。私達は今めぐまれていて、勉強したければできる時なのだから、がんばろうと思いました。
  • 人は遅かれ早かれ、自分の来た道の「すごさ」に気付くということを感じた。篠崎さんの中では、中・高時代の激動の戦争を生き抜いたことが大きいのだと思う。同様に、すさまじい勢いの時代を生きた分、自分に返ってくる物がより大きくなるとも感じた。この事はいつ、誰が気付かせてくれるのか?これも大切だと思う。人は自分より年下の人に教えられても何とも感じないと思う。そこを素直に受け入れて自分を見つめることが出来れば、更に自分がもう一回り大きくなると思う。自分のことを見つめ直すことで見える物は、とても大きく自分を変えると思う。
  • 中・高が一つだった事、男女別の教育、あからさまな女子差別、細かな所にも重みがあり、教科書でしか知らない事実が、現実となって見えてきました。今まで多くの方に戦争について教えていただきました。その中のほとんどの方が、当時の辛さ、苦しい思い出を熱心に語ってくださいます。ですが、戦後の日本の歩み、それをどう感じ、どう生きてこられたのかを語って下さったのは篠崎さんだけで、特にその部分がとても勉強になりました。篠崎さんはとても生き生きとされていますね。まだまだ青春つっぱしれそうなくらい。是非また来て下さい。楽しみにしています。
  • 快活で、おもしろい言い回しをまじえた話は退屈せず、真剣にきくことができました。戦争のことは小学校から何度も勉強しています。ですが、紙を読むのと体験を聞くのはまったくちがって、生きぬいた人の言葉はとても重くて、飢えやのみやしらみ、上ずみの湯のような配給、豆かすの話を聞いていて、とても息苦しくなりました。価値観が180度変わるというところをもうすこしくわしく聞きたかったです。「今どきの人は」言われる昨今、物も食べ物もあふれている中で、私は生まれ育ちました。飢えも知らず、命の危険のある恐怖も味わったことがなく、平和にぬくぬく育ちました。知識として戦争を知っていても本当の体験には遠くおよばないし、ぬくぬくしすぎで、なまけてしまっていることも多く、ガマン強くありません。満ち足りていることにあぐらをかいてなまけるのではなく、最大の環境の中でそれをいかして充実した、余裕のある大人になりたいです。篠崎さんが、今の私くらいの年に考えていたこと、どんな大人になりたいかなどや、こんな大人になってほしいなどのことの話も聞きたいと思いました。宝物の話を聞いて、私の宝物はなんだろうと考えてみました。自分の宝物はよくわかりませんでした。これから長い時を生きていると、自然にわかるようになるのでしょうか?
  • お話をしてくださったことは、私達には信じられないようなことばかりでした。今は、どこの家にもかならず食料があるし、外にいる時でもすぐに買えます。それに、塩などの調味料もぜったいにあるので、篠崎さんのお友達が「塩がなめたいよ!」と言ったと聞いた時には、本当にびっくりしました。他にもいろいろな所で苦労したと聞いて、私達は本当に幸せな時代にいるんだということを知りました。もっと、たくさん話を聞きたかったです。
  • すごい楽しかったです。「楽しかった」と言える内容ではないけれど、生の体験をいろいろ聞けてよかったです。今まで祖母や祖父にも聞いた事がなかったので、飢えの苦しさとか戦争中の話など、初めて聞きました。もっと時間があったら、いろいろディベートしたかったです。今度、祖母にあったら、戦時中など、若い頃の話を聞いてみようかなと思いました。やっぱり過去の事は次の世代に伝えていかなきゃいけないと思うし、自分自身は何も知らないのが恥ずかしいと思えるので…。平沼は百年も歴史があるのに、同じ校歌だと聞いてびっくりしました。言ってた通り、同じ歌を歌えるなんて、なんか不思議です。いろんなお話をありがとうございました。

篠崎さんのお話しは、2年後の先輩セミナーに続きます。

同窓生の執筆:

花橘54号 連載(4) 先輩セミナー2003 篠崎孝子さん(45期) 有隣堂会長

をご覧ください。

2021年07月27日|公開:公開