横浜大空襲による学校壊滅
横浜大空襲による学校壊滅
1945(昭和20)年3月、戦時下最後の卒業式では最終学年の5年生だけでなく、4年生も合わせて繰り上げ卒業とされた。労働力不足の中、彼女たちを一年でも早く生産現場に動員するためであった。
晴れの卒業式の日は、久しぶりに学校の講堂に集まったものの、「仰げば尊し」「蛍の光」を歌うことは禁止され、それにかわる「海行かば」の合唱のあと、敵機襲来の警戒警報が出て素早く解散となり、卒業の感傷などにひたるひまもなく、翌日からは、又工場通いの日が続いた。
(42期・鈴木マリ『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
上級生のほとんどが動員されてガランとした学校において、同年4月に入学した1年生だけは授業を受けていた。しかし、その内容は次のようなものであった。
空襲多く、授業少なし。ほとんど各"m目一時間か二時間しかしない。国語・万葉防人の歌。体操・ナギナタの先生が教室で武道の心得を訓示。コワイ思いだけ残る。礼法・作法室でお客様への座布団の勧め方。裁縫・手投弾用火薬袋二枚ずつ半返し細かく手縫いで縫う。四月五月でその位しか勉強せず。
(48期・堀内羊『創立百周年記念誌』学校編)
1945(昭和20)年5月29日、横浜は午前9時過ぎから約1時間半にわたって米軍の爆撃機・戦闘機による空襲を受けた。投弾量では3月10日の東京大空襲を上回る徹底した焼夷弾攻撃であった。爆撃の主要目標地点の一つが平沼橋であったため、本校周辺も大変な惨状を呈した。
直撃を免れ、鉄筋コンクリート造りであったために焼失せずにすんだ本校は、そのMの午後から罹災者のための救護病院に当てられた。
(校舎は)全く変貌していた。負傷者が校舎の二、三階に収容されていた。(中略)廊下のいたるところに汚物がたれ流され、やけどの病人の放つくさいにおいやもろもろの臭気がまじりあい、あたりにただよっていた。
破傷風がひろがっているとのことだった.一階のはずれ地歴室が霊安室となり、死者が運ばれ、校庭のすみで奈毘に付されるそうだった。昇降口のあたりには幾組かの家族が家を失い、ここを仮の宿としていた。
(旧職員・松尾雅子、横浜市・横浜の空襲を記録する会共編『横浜の空襲と戦災』1)
その後は授業もおこなわれず、敗戦後の授業再開まで本校は事実上学校としての機能を失った。
六月半ばになって、毎日登校。とは云え警報が多く、行ったり行かなかったり。(中略)登校中に警報が鳴ればすぐ帰り、授業もなく、おしゃべりして、十一時半には帰る。(中略)六月末、グラマンの機銃掃射(米兵の顔が見える位低空で)があり、翌朝登校したら、音楽室の壁、机に穴があいていて弾が転がっていた。
(48期・堀内羊『創立百周年記念誌』学校編)
《鶴田先生の思い出》
過去に発行された本校周年誌の中に、戦時下において歴史を担当していた鶴田靖という教師の思い出を語るものがある。戦争という国家目標のために人間性が否定された戦時下にあって、時流におもねることなく自己の良心に従い、生徒に温かい眼差しを向けた先生の人柄を偲ぶものである。
この先生の歴史の講義は古墳や土器の話からはじまった。いまならば当たり前のことだが日本中が狂気のようになっていた当時、たいへ勇気のいる行為だったと思う。(中略)卒業後一度もお眼にかかる機会のないうちに、肺結核で亡くなられたと聞いた。病気を自覚しておられたから、思い切った講義もできたものか。忘れられない先生である・(42期・安西篤子『70周年記念誌』)
昭和十九年五月。明日から工場に動員されるという日の最後の授業である。(中略)ゲートル姿でチョークを一本持ち、ツカツカと教室に入ってこられた先生はいきなり黒板の端から本の名前を書いていかれた。先ずは旧約聖書、(中略)車輪の下、西部戦線異常なし、クオレ、若きヴェルテルの悩み、(中略)と書いて振り返りちょっと笑って「こんなの読んでたら、お母さんに怒られるかもしれないな」とおっしゃったの覚えている。書き終えて先生は私たちを見回して「君たちは明日から学校では勉強することができなくなる。しかし本を沢山読み給え。せめてここに書いたいたものくらいは読んで欲しい。戦争はやがて終わるだろう。その時、沢山本を読んだことがきっと役に立つだろうから。」とおっしゃり「身体に気をつけて、無理をしないようにし給え。では」と教室を出ていかれた。
(中略)
(先生方は動員先の)私たちを毎日見回っておられた。そのような時、ある噂が流れてきた。曰く、病気で欠席がちの生徒のことを、工場に配属されている憲兵が咎めた(とがめた)時、身をもって庇ったのが鶴田先生だったのだと。「君たち、憲兵が何と言おうと自分の身体を大切にし給え。無理をしては駄目だよ。」その後、私たちの職場に見回りに来られた先生はそうおっしゃった。(中略)憲兵に抗議するということはあの当時、決死の覚悟のいる行為だったはずだ。どんなに勇気のいることだったろうか。ご自身で病を抱えていらっしゃった先生の、教え子の身体を案ずる心情の発露だったのだろう。(中略)
(筆者は動員先の工場が空襲を受けた翌日、電車が不通になったため、横浜から川崎まで歩いて行った。ところが工場は操業していなかったので帰路についた)西から夕日を背によろよろと自転車を漕いで近づいて来る人影があった。「君たち!」鶴田先生だった。「バカッ、こんな日に来るヤツがあるか!どうしてそんな無理するんだ!」よく行った、と誉められるかと思ったのに思いがけない師の叱声だった。頭垂れた私たちを見てニコッと笑った先生は「もう遅いから気を付けて帰り給え。何人か生徒がやって来たという連絡があったので見に来たんだ。まぁよかった。まだ居るかも知れないから僕は見に行ってくる。じゃあ」と、また自転車を漕いでいかれたのだろう。結核も二期だということを聞かされていた。(中略)
人間としての生き方を教えられた先生だった。自身のidentityを持ち、権力におもず、国と生徒の将来を案じて勇気をもって行動する、これこそ教育者の原点ではないだろうか。(中略)後年、教職にあった私は教育の流れが少しずつ変わっていくたびに天から先生の声が聞こえてくるような気がした。『君たち、しっかりしなければ駄目じゃないか!』と。
(43期・山崎恭子『創立百周年記念誌』同窓会編)