"良妻賢母"の育成

"良妻賢母"の育成

1901(明治34)年5月5日の開校式で、当時の神奈川県知事は以下のように述べている。
本校の教育の企図するところは、女子の処世上に須要なる智徳技能を得せしめ、他日良妻となりて家政を整理し賢母となりて子弟を教育し、また将来社会の儀表たるべき淑徳あるものを養成するにある。
高等女学校における教育の目的は、将来、良き妻となって家政を司り、良き母として子どもを育てることのできる女性を養成することにあるというのである。戦前、女性は「家を守る」ことが第一とされた。その教育方針にそった厳しいしつけがおこなわれた。

校風は全般に厳しく着物の白衿、白足袋などが少しでも汚れていますと担任の先生に職員室に呼ばれましてきついお叱りを受けました。「学校に対して文句のある人はいつでもやめてください。入りたい人はたくさんいるんですから」という態度だったものですから我々はいっもぴりぴりしていて、先生の御注意にはよく従ったものです。
(13期・卒業生『70周年記念誌』)

【先進的な取り組み】


当時の高等女学校では嘆語」は選択科目の扱いであったが、本校では必修科目に位置づけ、創立当初から外国人教師が教壇に立っていた。その内容の充実ぶりはミッションスクールにも引けを取らないといわれた。また、男子の中学校と高等女学校は同じ中等学校でありながら別々の教科書を使うのが常であったが、本校ではいくつかの教科で中学校と同じ教科書を用いて授業がおこなわれていた。

そんなおかげで、上級学校の入学試験を受けるときには、旧制高等学校の入試問題集を、どれも解答が出せるくらいになれたし、進学してからも、わかりにくい文語文法や漢文など、クラスの友だちから頼りにされるほどわかっていてありがたかった。(27期・卒業生『70周年記念誌』)
課外活動に柔道を配したことや、宿泊旅行を実施したことも、女学校としては先駆的なものであった。
こうして本校の質の高い教育は世間の評判を呼び、筒袖の制服は憧れの的となっていった。

2022年05月19日