校歌と『心の則』
校歌と『心の則』
本校の校歌は1916(大正5)年に制定された。作詞が明治の代表的歌人佐佐木信綱、作曲は幸田延一文豪幸田露伴の妹で文部省音楽取調掛東京音楽学校(現東京芸術大学の前身)教授一の手によるものである。幸田延は16歳でウィーンに官費留学し、いち早く西洋音楽を身につけた女性で、滝廉太郎も彼女の弟子の一人である。ちなみに冒頭の2小節は滝廉太郎作曲の「荒城の月」と同じである。
曲は現在も当時のままだが、作られた当初の歌詞は次のようであった。
一、をしえの道のみことのり
われらが日々のをしへなり
みそらに匂ふ富士の峰
われらが胸のかがみなり
二、百船ちふねつどひ寄る
みなとの榮えきはみなし
榮ゆる御代のみめぐみに
御くにの花とさきいで舞
「をしえの道のみことのり」とは戦前の国家主義教育の柱とされた教育勅語のこと、「榮ゆる御代」とは天皇の治世のことである。ちなみに、校歌の制定は、後の昭和天皇が立太子礼を挙げた際の記念事業の一環としてであった。
〈この歌詞は1950(昭和25)年、現在のものに改定されている〉
戦前において、校歌とともに本校の教育伝統を培う上での柱とされたものに、第二代校長相澤栄次郎
が1913(大正2)年に制定した校訓ともいうべき『心の則』がある。
吾等は至誠以て教育に関する勅語の聖旨を奉体し
皇室の尊栄と国運の隆盛とを祈り父母祖先の高恩を念じ親戚知人の幸福を希ひ
貞淑を貴び志操を堅実にし奢1多を戒め倹約を履行し
学業を励み智能を啓発し摂生を重じ身体を健全にし
以て光栄ある今日を過さん
これもまた、教育勅語の精神を本校の教育の中に生かすことを目標としている。
校歌は毎週水曜日の朝礼で全校生徒によって歌われ、『心の則』も朝礼で生徒の代表が朗読し、厳粛
な気分の中でその精神の徹底が図られたのである。
張り切って通学した五年間で最も緊張したのは、『心の則』を当番で唱えることだったでしょう。(中
略)朝礼の時五年生が一人ずつ代表として最前列に立って唱えたのでしたが、此の時は身のひき締
まる思いでした。(27期・卒業生『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
こうした教育観は、本校のみならず戦前の公立学校においては基本的なものであった。
教育勅語
1890(明治23)年に公布された、教育の基本方針を示した明治天皇の勅語。忠君愛国を国民道徳の目標として修身の教科書の巻頭に掲げられただけでなく、式日には学校で「奉読」されるなど、教育界を支配した。1947(昭和22)年、教育基本法が制定された後、1948(昭和23)年に、国会でこの勅語の失効が確認された。