私たちが学ぶ神奈川県立横浜平沼高等学校は、1900(明治33)年、神奈川県で初めての県立女子中等教育機関として設立された。
創立当初の「神奈川県高等女学校」以来、「神奈川県立高等女学校」、「神奈川県立横浜第一高等女学校」、「神奈川県立横浜第一女子高等学校」、「神奈川県立横浜平沼高等学校」と名称は変更されたものの、2000(平成12)年には創立100周年を迎えた。
本校の歴史をたどることは、そのまま20世紀の歴史をたどることでもある。本校の歴史について学ぶことによって、生徒諸君に20世紀という時代についても学んでほしい。それがこの冊子のねらいである。
また、それぞれの時代に本校で過ごした人々の思いを偲ぶ縁(よすが)として、当時の『花橘』や周年記念誌に掲載された証言をできるだけ紹介した。本校創立以来、3万人を超える人々がさまざまな思いを胸にこの学び舎を巣立っていった。
そのことを心に留め、そうした人々の思いの上に現在の自分があることを感じてほしい。それがこの冊子の願いである。
母校のあゆみ一覧
「県立高女」の誕生
「県立高女」の誕生
幕末いち早く外国に門戸を開いた横浜を擁した神奈川県であったが、中等教育(男子の通う中学校・女子の通う女学校)に関しては他県に比べて遅れをとっていた。東京に近く、東京の学校に学ぶことで足りるとする風潮があったことと、県内には江戸時代に主要な藩がなく、地方他県のような藩校の系譜がなかったことなどが影響していた.
女子教育に関しては、いくつかののミッションスクールが明治初期から特徴ある教育をおこなっていたが、いずれも私学であり、公立学校ではなかった。
1896(明治29)年に埼玉県が県立中学校を開校すると、全国で神奈川県だけが取り残される状況となり、1897(明治30)年、ついに神奈川でも県立中学校が開校することになった。「神奈川県尋常中学校」、現在の希望ヶ丘高等学校である.
本校百年の歩みは、1900(明治33)年10月10日に始まる。本県最初の高等女学校として設立された「神奈川県高等女学校」、まもなく改称された「神奈川県立高等女学校」である。
当時の教育課程をみると、裁縫や家事に多くの時間をあて、男子の通う中学校に比べると外国語や数学の時間が少ない。しかし本校は、当時の高等女学校としては他県のそれにはない進歩的な教育方針をとっていた.他県では随意科とされていた英語を必修科目とし、また制服を採用したのである。当時、「県立高女」の生徒であることは誇りであり、その制服姿は羨望の的であった。また、その卒業生であることは、"良妻賢母"の証とされた。
その教育内容は、県下秀逸の才媛にふさわしく高度なものであり、学芸会や体育祭などの学校行事も当時の横浜では有名で、新聞紙上でも絶賛されたという。また、女子の旅行が容易でなかった時代にもかかわらず、長期に渡って遠方へ修学旅行に出かけるなどの先進的な試みも多く取り入れられていた。
また、本校には小学校教員を養成するための女子師範学校が1907(明治40)年から1927(昭和2)年まで併置されていた。この女子師範学校はその後再編され、現在の横浜国立大学教育人間科学部となっている.
戦前においては、義務教育の小学校を卒業して上級学校へ進む場合、男子は中学校、女子は高等女学校に分かれていた。なお、男子はさらに大学に進むことができたが、女子には制度上の大学に進む道が閉ざされていた。
【学校創立のころ】
1899(明治32)年に高等女学校令が制定され、神奈川県にも高等女学校が誕生することになった。
校地選定に当たってはさまざまな候補地があげられたが、最終的に、橘樹郡保土ヶ谷町岡野新田の
岡野欣之助氏所有地三千坪が選ばれた。この土地は「教育のためなら」という岡野氏の厚意で、寄付により提供された。現在、本校が建っている場所である。県立中学校(現希望ヶ丘高等学校)に遅れること3年、こうして、神奈川県で初めての県立高等女学校が設置を認可された。1900(明治33)年10月10日のことである。
岡野新田は、欣之助氏の祖父良親氏と父良哉氏が海に堤を築いて埋め立て、耕地としたところである。開校当時には現在の場所にまだ横浜駅はなく、西ロー帯は海であった。帷子川のほとりに木造二階
建ての本校校舎がぽつんと建ち、校地のすぐそばまで海や沼が迫っていた。
校舎の前は沼だの葡萄棚だので、後ろは草原、小高い浅間の岡でした。左右は岡野さんの別荘、テニ
スコートでそこら一帯には数軒の家が点在するばかりでした。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
明治、大正の制服
【「筒袖」制服の女学校一初代制服】
初代校長新原俊秀は、全国の女学校に先駆けて制服を制定した。この制服というのが「洋服または短袖、茶袴」。着物の柄は地味なものなら何でもよく、袴は海老茶と決められた。当時、挟を短くした「筒袖」は男性が着るものだったため、親にも生徒にも評判が悪かった。
当時筒袖は男の人が着るもので誠に恥ずかしく「この次は男みたいに坊主になるのかね。」とよくからかわれたもんです。(2期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
女子が上級学校へ進んで学問をするだけでも特別な目で見られる時代、女性は控えめに慎ましくと願
う親たちにとって、「男勝り」の制服は心配の種だったようだ。そのためもあってか、第1回の入学試験は応募者が定員に足らず、無試験だった。
難しい試験があるといわれ、一生懸命勉強したのですが、試験場に行ったら、「実は入学希望者が募
集定員より少ないから入学試験は行わずに全部入学を許可いたします。(中略)といわれて拍子抜げ
した。(3期・卒業生『花橘』第37号)
【矢紺模様の制服一二代目の制服】
1915(大正4)年、二代目の制服が制定された。筒袖は元禄袖に変わり、着物の柄は矢緋模様となる。この矢緋模様に、「神奈川県立高女」の「神」、「女」、「川」を図案化したものがあしらわれた。筒袖は敏良」されたものの、着物の色合いや模様が自由であった初代制服に比べ、地質や柄はかえって地味になる。
そのころの神奈川県立高等女学校といえば、名実ともに県下第一番の女学校でした。でもその制服たるや、今の若い方々には想像もできまいと思われるようなものでした。近頃のように世間一般が派手な風潮でない四〇年以上も前でさえ、相当のお年寄りでなければ着なかったであろうと思われるほどの、細かいかすり模様の木綿の着物と袴でした。それは横浜では誰知らぬ人もない名門校のシンボルで、それを着ることは全く誇らしくさえありましたが、私が住んでいた東京では通用しませんでした。国電・東横線と乗り継ぐ間の人々の好奇に満ちた目、目、朝タ本当に恥ずかしく、つらい思いをして通学したものです。(28期・卒業生『70周年記念誌』)
群がる他校の生徒がサッと道を開ける、モーゼの海のような話もまんざら作りごとではなかったし、おぶい半天に仕立てている人を見かけると県立出の才媛だねと人びとはささやいた。(31期・卒業生『創立100周年記念誌』同窓会編)
教師からは、「皆が集まっていると、雑巾山のようだ」と椰楡され、修学旅行先ではあまりにも地味なために好奇の目で見られたこの制服も、神奈川県下では相当の威力を持っていた。
"良妻賢母"の育成
"良妻賢母"の育成
1901(明治34)年5月5日の開校式で、当時の神奈川県知事は以下のように述べている。
本校の教育の企図するところは、女子の処世上に須要なる智徳技能を得せしめ、他日良妻となりて家政を整理し賢母となりて子弟を教育し、また将来社会の儀表たるべき淑徳あるものを養成するにある。
高等女学校における教育の目的は、将来、良き妻となって家政を司り、良き母として子どもを育てることのできる女性を養成することにあるというのである。戦前、女性は「家を守る」ことが第一とされた。その教育方針にそった厳しいしつけがおこなわれた。
校風は全般に厳しく着物の白衿、白足袋などが少しでも汚れていますと担任の先生に職員室に呼ばれましてきついお叱りを受けました。「学校に対して文句のある人はいつでもやめてください。入りたい人はたくさんいるんですから」という態度だったものですから我々はいっもぴりぴりしていて、先生の御注意にはよく従ったものです。
(13期・卒業生『70周年記念誌』)
【先進的な取り組み】
当時の高等女学校では嘆語」は選択科目の扱いであったが、本校では必修科目に位置づけ、創立当初から外国人教師が教壇に立っていた。その内容の充実ぶりはミッションスクールにも引けを取らないといわれた。また、男子の中学校と高等女学校は同じ中等学校でありながら別々の教科書を使うのが常であったが、本校ではいくつかの教科で中学校と同じ教科書を用いて授業がおこなわれていた。
そんなおかげで、上級学校の入学試験を受けるときには、旧制高等学校の入試問題集を、どれも解答が出せるくらいになれたし、進学してからも、わかりにくい文語文法や漢文など、クラスの友だちから頼りにされるほどわかっていてありがたかった。(27期・卒業生『70周年記念誌』)
課外活動に柔道を配したことや、宿泊旅行を実施したことも、女学校としては先駆的なものであった。
こうして本校の質の高い教育は世間の評判を呼び、筒袖の制服は憧れの的となっていった。
校歌と『心の則』
校歌と『心の則』
本校の校歌は1916(大正5)年に制定された。作詞が明治の代表的歌人佐佐木信綱、作曲は幸田延一文豪幸田露伴の妹で文部省音楽取調掛東京音楽学校(現東京芸術大学の前身)教授一の手によるものである。幸田延は16歳でウィーンに官費留学し、いち早く西洋音楽を身につけた女性で、滝廉太郎も彼女の弟子の一人である。ちなみに冒頭の2小節は滝廉太郎作曲の「荒城の月」と同じである。
曲は現在も当時のままだが、作られた当初の歌詞は次のようであった。
一、をしえの道のみことのり
われらが日々のをしへなり
みそらに匂ふ富士の峰
われらが胸のかがみなり
二、百船ちふねつどひ寄る
みなとの榮えきはみなし
榮ゆる御代のみめぐみに
御くにの花とさきいで舞
「をしえの道のみことのり」とは戦前の国家主義教育の柱とされた教育勅語のこと、「榮ゆる御代」とは天皇の治世のことである。ちなみに、校歌の制定は、後の昭和天皇が立太子礼を挙げた際の記念事業の一環としてであった。
〈この歌詞は1950(昭和25)年、現在のものに改定されている〉
戦前において、校歌とともに本校の教育伝統を培う上での柱とされたものに、第二代校長相澤栄次郎
が1913(大正2)年に制定した校訓ともいうべき『心の則』がある。
吾等は至誠以て教育に関する勅語の聖旨を奉体し
皇室の尊栄と国運の隆盛とを祈り父母祖先の高恩を念じ親戚知人の幸福を希ひ
貞淑を貴び志操を堅実にし奢1多を戒め倹約を履行し
学業を励み智能を啓発し摂生を重じ身体を健全にし
以て光栄ある今日を過さん
これもまた、教育勅語の精神を本校の教育の中に生かすことを目標としている。
校歌は毎週水曜日の朝礼で全校生徒によって歌われ、『心の則』も朝礼で生徒の代表が朗読し、厳粛
な気分の中でその精神の徹底が図られたのである。
張り切って通学した五年間で最も緊張したのは、『心の則』を当番で唱えることだったでしょう。(中
略)朝礼の時五年生が一人ずつ代表として最前列に立って唱えたのでしたが、此の時は身のひき締
まる思いでした。(27期・卒業生『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
こうした教育観は、本校のみならず戦前の公立学校においては基本的なものであった。
教育勅語
1890(明治23)年に公布された、教育の基本方針を示した明治天皇の勅語。忠君愛国を国民道徳の目標として修身の教科書の巻頭に掲げられただけでなく、式日には学校で「奉読」されるなど、教育界を支配した。1947(昭和22)年、教育基本法が制定された後、1948(昭和23)年に、国会でこの勅語の失効が確認された。
関東大震災
関東大震災
1923(大正12)年9月1日、関東一帯を襲った大地震で、本校の校舎も壊滅的な打撃を受けた。本館は一部を除いて倒壊、1910(明治43)年以来併設されていた付属小学校の校舎は焼失した。当時は2学期の牒が9月6日からであったために学校は夏休み中であったが、教師2名、生徒25名が亡くなり、18名の生徒が退学、91名が転学を余儀なくされた。
倒壊した校舎の跡地に建てられた臓校舎で授業が再開されたのは11月13日のことだった。
考へまいと思っても、震災前は英語をしようとすれば英語の本があるし、数学でも国語でもしようとすればどれとして不自由な事はなかったに、等と、だんだん思ひつめて終には涙がぽほをぬらす様になってしまった。(当時の1年生・『花橘』震災記念号)
ザアーッと雨がトタン屋根にはげしくはねかへす様になりますと、もう講義の御声も聞えず先生も私達も顔を見合せて雨のふり方を眺めてしまひます.すると急にボール紙の様な天井に水が輪取るのに気がつきます。又雨もりが始まったのに気がつき、バケツをつかったり、机を動かしたりさわぎます。
(28期・卒業生『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
天井と腰板はボール紙、床板は節穴だらけという劣悪な環境の中で、全国の女学校や卒業生から贈られた教科書を使っての授業が続けられた。
しかし、これをきっかけに1907(明治40)年以来併設されていた女子師範学校の分離や、近代的設備を誇る新校舎の建設が実現することになった。
この震災は大きな被害をもたらしただけでなく、混乱の中で、横浜を起点としてさまざまなデマが流布された。そのため、それによる数々の悲劇をも生んだ。『花橘』震災記念号に収められた生徒の文章にも、そのデマの広がりぶりが記されている。
「第一高女」になったころ
「第一高女」になったころ
関東大震災で倒壊した初代校舎に代わり、1928(昭和3)年、鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が完成する。その2年後の1930(昭和5)年、校名が「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改称され、制服もそれまでの着物から洋装に変わり、本校は一新された。
20世紀初頭段階でも、神奈川県は他県に比べて中等学校の整備が遅れていた。
1910年代までに設立されていた県立中学校は全部で5校(現希望ヶ丘高等学校・現小田原高等学校・現厚木高等学校・現横須賀高等学校・現横浜翠嵐高等学校)、県立の高等女学校については本校1校のみである。
しかし、第一次世界大戦を経た1920年代に入ると、急速な工業化にともなう人□の急増と、大正デモクラシーを背景とした教育に対する関心の高まりから、神奈川県でも中等学校への進学を希望する者が急増した。そのため、1921(大正10)年に6校目の県立中学校として湘南中学校(現湘南高等学校)が、2番目の県立女学校として平塚高等女学校(現平塚江南高等学校)が開校され、その後、中学校、高等女学校ともに新たな開校が相次ぐようになる。
県立の高等女学校に関しては、1920年代に、本校および平塚高等女学校のほか、厚木高等女学校(現厚木東高等学校)、小田原高等女学校(旧小田原城内高等学校)、横須賀高等女学校(現横須賀大津高等学校)が加わって5校となった。
本校の校名が「神奈川県立横浜第一高等女学校」と改められたのは、そうした中等学校の増加傾向の中で、近い将来に横浜市内でも県立高等女学校の増設が予想されたためである。ちなみに、横浜第二高等女学校は1936(昭和11)年に開校されている(現横浜立野高等学校)。
この当時、高等女学校卒業者の過半数は家庭に入ったが、本校においては上級学校に進む者、就職する者の割合が上昇していった。
生徒たちは勉学だけれなく、学芸会・音楽会・成績品展覧会などの諸行事にも積極的に取り組んだ。耐久徒歩や船旅を取り入れた修学旅行などは戦前の名物行事であった。加害活動も水泳。登山・キャンプ・スキーと多彩に配された。また、講演会・映画会・社会見学などがたびたび催され、見聞を広める機会が数多く持たれた。
運動競技においても、バスケットボール・バレーボール・陸上競技・水泳などの種目を中心に顕著な成績を挙げている。
1930年代は不況が長引き、戦争の足音が忍び寄る時代であるが、”自由でのびのびした校風”を印象に残している卒業生が多い。
二代目校舎の完成と洋装の制服
震災による校舎倒壊から5年を経た1928(昭和3)年10月30日、待ちに待った新校舎が完成した。総工費は当時の金額で44万9千円。鉄筋コンクリート三階建ての校舎は、大理石の円柱に広い玄関、廊下には彫り模様のタイルが敷きつめられ、階段の手摺には校歌の楽譜が透かし彫りであしらわれるなど、随所に工夫を凝らした格調高いものだった。
1930(昭和5)年、校名の変更を機に制定された三代目の制服は、紺のジャンパースカートに白ブラウスのしゃれた洋装で、この制服の制定には当時発足した「母の会」の「日本の玄関ともいうべき横浜の、そのまた代表的な女学校の生徒がこの制服では…」という意見が大いにカとなったようである。都大路を歩いても恥ずかしくないと大喜びされたスマートな制服だった。
クラスの中、誰が一番に新しい校服を着ていらっしゃるか?それが誰もの楽しみでした。「今日は○○さんよ。よく似合うのね、素敵よ。」などと様々なお世辞や、中には飾り気なく酷な批評を下す方もあります。何だか早く着たいような、また憧れて着たあの麦の模様から別れることが淋しい気持でした。
そのジャンパーも記念祝賀会の日には新旧両校服で二分するくらいになったように思います。
(29期・千賀登美子『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
自由でおおらかな校風と様々な行事
自由でおおらかな校風と様々な行事
「第一高女」と改称されたころ、全国的に中等学校に進学を希望する者が増大した。その中で本校は
名門校としての地位を維持した。
かくて当時は県下に誇る最大最優の学校であった。しかも生徒は県下各地から志望し、激烈な競争の
後に入学して来た俊秀をあつめていたから、その千余名は殆ど珠玉のみで、才媛雲集の自覚ましい
壮観を呈した。(旧職員・松隈義勇『花橘』復刊第1号)
厳しい学業が課されただけでなく、一方では様々な行事や生徒の活動が展開され、現在に続く「自由
でおおらかな校風」が育まれていった。
全体としては、極めて穏健・中庸な学校の方針の下で、地道にいろいろな力をつけて頂いたような気がします。(中略)まだ大正デモクラシーの余韻というか、私共の在学中は、世間にもかなり自由な空気があって、教育の上にも、いろいろ新しい試みが行われていたように記憶します。(33期・虎岩信江『70周年記念誌』)
花橘(戦前分)
戦時下の第一高女
戦時下の第一高女
1931(昭和6)年の満州事変によって日本の中国への侵略が本格化し、次第に戦時色が強まっていく.すでに男子が通う中学校では、1925(大正14)年から現役将校が配属されて軍事教練が実施されていた。
1937(昭和12)年に始まった日中戦争は4年後には太平洋戦争へと拡大する。このころには戦争の影響が本校にも直接に及ぶことになる。
様々な学校行事に軍事色が加えられただけでなく、全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝や市内行列行進をしばしばおこなったり、防空演習、防毒マスク作りなども始まった.また、本校教員の中から出征し、戦死する者も出るようになった。
それまで特徴ある学校行事は、教職員と生徒で構成された校友会という組織を通じて運営されたきた。戦時下、この校友会は「皇国民ノ錬成」を目的とする報国団に再編され、学校全体が軍隊を模したものとなった。この中で、先進的な取り組みであった学校キャンプもスキーも、さらに修学旅行も廃止されてしまう。伝統ある『花橘』も1O年間にわたっての休刊を余儀なくされる。
戦争の長期化は学校の授業内容にも影響をもたらした.科目名に「修練」があらわれ、英語は敵国語であるとして必修科目から除外される。
当初、夏休みなどに校内で実施された集団勤労作業は、やがて授業時間を割いて農家の手伝いに出かけるようになる。さらに、工場や軍事施設に駆り出される勤労動員へと拡大・強化されていく。動員された生徒たちは、毎日、学校へではなく、動員先に通うのである。なかには、親元を離れて動員先の不衛生な宿舎に寝泊まりし、苛酷な労働に従事した者もあった。
校庭には工場施設が搬入され、一画には食糧不足を反映して農園が作られた。
神奈川県には多くの軍事施設があったために、県内だけでなく他県からも多くの中学校・高等女学校生徒が勤労動員に駆り出されていた。そして、彼らの中から百名を超える者が動員先で犠牲になっている.幸い本校生徒から犠牲者は出なかったが、まさに死と隣り合わせの毎日を強いられたのである。なお、中学校では、卒業を前にして軍関係の諸学校に進む者もあり、中には、特攻隊員としての訓練を受けるべく学校を後にした者もあった。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、本校周辺も焼き払われた。このとき鉄筋校舎の焼失を免れた本校は、臨時の救護病院にあてられて多数の負傷者を収容した。
この年、勤労動員のために2年生以上はほとんど登校していなかった中、わずかに1年生が授業を受けていたが、大空襲後は授業はほとんどおこなわれず、8月の敗戦を迎えることとなる。
日中戦争と勤労作業の開始
最も強く印象に残って居るものは昭和十三年私達が五年の時の七月二十一日から二十七日までの一週間行はれた勤労作業の思ひ出である。少し大袈裟かも知れぬが自己と云ふ色彩の最も少ない数日であった。
(36期・山上京子『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)
太平洋戦争と勤労動員の開始
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まるころからは、労働力不足を補うために満/4歳以上の男女生徒も工場や軍事施設に働労動員」されるようになる。本校では1942(昭和17)年2月に5年生が横須賀の海軍施設に動員されたのを皮切りに、次々と動員された。
(1942年)四月十八日には、米国航空機の本土初空襲を経験した。時ならぬ空襲警報に、授業も途中でなげだし、雨天体操場に集合、はじめて聞く高射砲の音に菖をすくめて、お友達と抱き合った記憶はいまだになまなましい。二年生時代には、もうすでに、動員命令によって時々工場にかり出されるような状態になっていた。さらに三年に進んで間もなくから、四年生の夏、終戦を迎えるまでの間、いわゆる勤労奉仕にあけくれた。今の、よく学び、よく遊ぶ高校生の方々の生活からは、とても想像もできないような毎日である。遊ぶことはおろか、学ぶ自由さえ、奪われてしまったわけであった。
(43期・小村節子『創立百周年記念誌』同窓会編)
横浜大空襲による学校壊滅
横浜大空襲による学校壊滅
1945(昭和20)年3月、戦時下最後の卒業式では最終学年の5年生だけでなく、4年生も合わせて繰り上げ卒業とされた。労働力不足の中、彼女たちを一年でも早く生産現場に動員するためであった。
晴れの卒業式の日は、久しぶりに学校の講堂に集まったものの、「仰げば尊し」「蛍の光」を歌うことは禁止され、それにかわる「海行かば」の合唱のあと、敵機襲来の警戒警報が出て素早く解散となり、卒業の感傷などにひたるひまもなく、翌日からは、又工場通いの日が続いた。
(42期・鈴木マリ『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
上級生のほとんどが動員されてガランとした学校において、同年4月に入学した1年生だけは授業を受けていた。しかし、その内容は次のようなものであった。
空襲多く、授業少なし。ほとんど各"m目一時間か二時間しかしない。国語・万葉防人の歌。体操・ナギナタの先生が教室で武道の心得を訓示。コワイ思いだけ残る。礼法・作法室でお客様への座布団の勧め方。裁縫・手投弾用火薬袋二枚ずつ半返し細かく手縫いで縫う。四月五月でその位しか勉強せず。
(48期・堀内羊『創立百周年記念誌』学校編)
1945(昭和20)年5月29日、横浜は午前9時過ぎから約1時間半にわたって米軍の爆撃機・戦闘機による空襲を受けた。投弾量では3月10日の東京大空襲を上回る徹底した焼夷弾攻撃であった。爆撃の主要目標地点の一つが平沼橋であったため、本校周辺も大変な惨状を呈した。
直撃を免れ、鉄筋コンクリート造りであったために焼失せずにすんだ本校は、そのMの午後から罹災者のための救護病院に当てられた。
(校舎は)全く変貌していた。負傷者が校舎の二、三階に収容されていた。(中略)廊下のいたるところに汚物がたれ流され、やけどの病人の放つくさいにおいやもろもろの臭気がまじりあい、あたりにただよっていた。
破傷風がひろがっているとのことだった.一階のはずれ地歴室が霊安室となり、死者が運ばれ、校庭のすみで奈毘に付されるそうだった。昇降口のあたりには幾組かの家族が家を失い、ここを仮の宿としていた。
(旧職員・松尾雅子、横浜市・横浜の空襲を記録する会共編『横浜の空襲と戦災』1)
その後は授業もおこなわれず、敗戦後の授業再開まで本校は事実上学校としての機能を失った。
六月半ばになって、毎日登校。とは云え警報が多く、行ったり行かなかったり。(中略)登校中に警報が鳴ればすぐ帰り、授業もなく、おしゃべりして、十一時半には帰る。(中略)六月末、グラマンの機銃掃射(米兵の顔が見える位低空で)があり、翌朝登校したら、音楽室の壁、机に穴があいていて弾が転がっていた。
(48期・堀内羊『創立百周年記念誌』学校編)
《鶴田先生の思い出》
過去に発行された本校周年誌の中に、戦時下において歴史を担当していた鶴田靖という教師の思い出を語るものがある。戦争という国家目標のために人間性が否定された戦時下にあって、時流におもねることなく自己の良心に従い、生徒に温かい眼差しを向けた先生の人柄を偲ぶものである。
この先生の歴史の講義は古墳や土器の話からはじまった。いまならば当たり前のことだが日本中が狂気のようになっていた当時、たいへ勇気のいる行為だったと思う。(中略)卒業後一度もお眼にかかる機会のないうちに、肺結核で亡くなられたと聞いた。病気を自覚しておられたから、思い切った講義もできたものか。忘れられない先生である・(42期・安西篤子『70周年記念誌』)
昭和十九年五月。明日から工場に動員されるという日の最後の授業である。(中略)ゲートル姿でチョークを一本持ち、ツカツカと教室に入ってこられた先生はいきなり黒板の端から本の名前を書いていかれた。先ずは旧約聖書、(中略)車輪の下、西部戦線異常なし、クオレ、若きヴェルテルの悩み、(中略)と書いて振り返りちょっと笑って「こんなの読んでたら、お母さんに怒られるかもしれないな」とおっしゃったの覚えている。書き終えて先生は私たちを見回して「君たちは明日から学校では勉強することができなくなる。しかし本を沢山読み給え。せめてここに書いたいたものくらいは読んで欲しい。戦争はやがて終わるだろう。その時、沢山本を読んだことがきっと役に立つだろうから。」とおっしゃり「身体に気をつけて、無理をしないようにし給え。では」と教室を出ていかれた。
(中略)
(先生方は動員先の)私たちを毎日見回っておられた。そのような時、ある噂が流れてきた。曰く、病気で欠席がちの生徒のことを、工場に配属されている憲兵が咎めた(とがめた)時、身をもって庇ったのが鶴田先生だったのだと。「君たち、憲兵が何と言おうと自分の身体を大切にし給え。無理をしては駄目だよ。」その後、私たちの職場に見回りに来られた先生はそうおっしゃった。(中略)憲兵に抗議するということはあの当時、決死の覚悟のいる行為だったはずだ。どんなに勇気のいることだったろうか。ご自身で病を抱えていらっしゃった先生の、教え子の身体を案ずる心情の発露だったのだろう。(中略)
(筆者は動員先の工場が空襲を受けた翌日、電車が不通になったため、横浜から川崎まで歩いて行った。ところが工場は操業していなかったので帰路についた)西から夕日を背によろよろと自転車を漕いで近づいて来る人影があった。「君たち!」鶴田先生だった。「バカッ、こんな日に来るヤツがあるか!どうしてそんな無理するんだ!」よく行った、と誉められるかと思ったのに思いがけない師の叱声だった。頭垂れた私たちを見てニコッと笑った先生は「もう遅いから気を付けて帰り給え。何人か生徒がやって来たという連絡があったので見に来たんだ。まぁよかった。まだ居るかも知れないから僕は見に行ってくる。じゃあ」と、また自転車を漕いでいかれたのだろう。結核も二期だということを聞かされていた。(中略)
人間としての生き方を教えられた先生だった。自身のidentityを持ち、権力におもず、国と生徒の将来を案じて勇気をもって行動する、これこそ教育者の原点ではないだろうか。(中略)後年、教職にあった私は教育の流れが少しずつ変わっていくたびに天から先生の声が聞こえてくるような気がした。『君たち、しっかりしなければ駄目じゃないか!』と。
(43期・山崎恭子『創立百周年記念誌』同窓会編)
焦土からの出発
焦土からの出発
1945(昭和20)年8月15日、終戦の詔勅が下り、15年にわたった戦争に終止符が打たれる。授業は10月1日に再開されるが、校舎は威容を誇る外観からは想像できないほど荒れ果てていた。
大空襲で大倉山にあった校舎を失った高木女子商業学校に4教室を貸与しての出発だった。疎開していた生徒たちも徐々に戻り始め、1教室に50人以上がひしめきあい、教科書も満足に揃わず、学習進度もまちまちな中で教育活動が再開される。まがりなりにも学校らしい落ち着きが戻ったのは翌年の春頃だった。
そんな中で、従来の国家主義・軍国主義教育を一掃するために、1945(昭和20)年10月から翌年春にかけて、連合国軍総司令部(GHQ)からの指令や県の通達が続いた。教練の禁止、神道教育の排除、修身・国史・地理の授業停止や教科書の回収などである。一方で、戦時中敵国語として禁止されていた英語の授業が再開される。
また、1947(昭和22)年には、民主主義教育の柱となる教育基本法が制定された。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」(教育基本法)がうたわれ、日本の教育は一大転換期を迎えた。さらに、同年に行われた学制改革によって、男女平等原則に基づく共学制、小・中学校の義務教育化、新制高校の創設が掲げられた。
本校でも、戦争から解放された安堵感と、昨日までの価値観が崩れ去っていく戸惑いの中で、「民主主義」を旗頭に掲げた新しい教育が手探りで始まった。
占領軍の指導で生徒による自治組織「生徒自治会」(後の生徒会)が組織されたのも、教育現場に「民主主義」を根付かせることを意図してのことである。様々な活動を通じて民主主義の浸透が図られた。
保護者の組織も「母の会」から「家庭会」と改められた。「教員と親の連合」というアメリカ流の考え方に従って新しく組織し直すことが指導された結果である。これが後の「PTA=Parent
and Teacher Association」になる。
学制改革にともなって本校は、1948(昭和23)年に新制高等学校となり、「神奈川県立横浜第一女子高等学校」と改称した。しかし、この校名はわずか2年間で姿を消した。1950(昭和25)年、神奈lll県は高等学校で男女共学を実施することになるからである。
1948(昭和23)年からは通信教育部(後の通信制課程)が、翌49年には県立横浜幼稚園が校内に併置(1990年3月に閉園)され、学校は新たな陣容を整えた。
価値観の転換一民主教育の開始
敗戦から一ヶ月余りたった1945年10月1日、施設は荒れ果て、教科書も満足にそろわないという環境
の中で、本校は再建の第一歩を踏み出した。
煤けた教室には、昔の緊張が無くなって居た。生徒もぼんやりして居たが、先生方も新しき変化に、明らかにとまどって居られた。第一、教科書がない。戦時中配給された新聞紙状の教科書を、頁数に合せて切り放し閉じ合せた薄ぺらな教科書にある国家主義的な表現を墨で塗り潰しながら使った教科書もあったが、それすら空襲の中で失くして了った友達が多かった。一部の先生方は、黒板に教えたい文章や数式等を書かれ、それをノートに写し取って教科書としている教科もあった。課題を出されて、自分たちでそれを調べ発表する形式を採られた場合もあった。何もかもが混沌として、ざわざわしている状態に、私達は絶望していた。絶望しながら、一体どうして欲しいのか、自分達自身がよく判っていなかった。(47期・大澤紗智『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
GHQは軍国主義教育の一掃と教育民主化推進のために次々と指示を下した。本校にもGHQの担当者が連日のように来校し厳しい点検をおこなった.神奈川一中(現希望ヶ丘高等学校)では、GHQが発した「教育に関する指令」を再三の指導にもかかわらず掲示しなかったとのことで校長が罷免されている。戦時中に軍国主義教育を鼓舞した教員も排除された。幸い本校には、その該当者はいなかったが、しばらく動揺と混乱の日々が続いた。
生徒は戦時中の動員を含めた重苦しい生活から解放されて自由の空気を存分に吸っていましたが、先生は軍国主義教育の責任を取らされて辞めさせるられるのではないかとビクビクしていたようです。(45期・深尾恭子『創立100周年記念誌』同窓会編)
生徒や職員たちは急激な価値観の変化に戸惑いながらもまもなく活力を取り戻していく。特に男女平等の実現は生徒たちに新たな希望をもたらした。
新学生の思考で何よりも嬉しかったのは教育における男女差別の撤廃である。終戦前までは男子より低水準に抑えられていた教科(数学等)についても同じ教科書を使えることになり、国公立大学の門戸も開かれたのである。私たちの勉学意欲は旺盛で進学率も高かったと思う。しかし、女性の進出に対する社会の壁はまだ厚く、インフレ時代でもあった経済的理由や親の反対で大学進学を断念した友人も多かったのである。(47期内田登喜子『創立100周年記念誌』同窓会編)
教育改革の一環としてGHQは生徒の自治活動も重視し、その実現を推進した。生徒の自治組織である「生徒自治会」の結成、各校代表生徒で構成する「模擬市会」の開催などである。また、教科指導内容にも従来とまったく異なる発想の取り組みを指示した。「ホームプロジェクト」や「コア・カリキュラム」の試行がその一例である。
アメリカの神奈川県駐在の係官が学校へやってきて、「日本の学校にはスチュデントガバメントはあるか(中略)生徒の力のつよいものだ」といいます。これが、現在の高等学校に生徒会とよばれて、特別教育活動の中に位置づけられているものの発祥ですが、そのころは、神奈川県では、生徒自治会と訳されて、県下の各中学校、女学校に組織され、その連合会をもって行事をするという段階にまで発展しました。(中略)ではこの組織が一体どんなことをしたのかといいますと、一番印象にのこっているのは模擬市会というのです。このときは男子系の学校の生徒たちも参加して、市長役、議長役その他をえらんだわけですが、おもしろいことには開票の結果はえらどころの役はみな平沼の生徒が占め
てしまいます。頭がよくて人おじせず、発言がテキパキしているせいでしょうか。(旧職員・松本喜美
子『70周年記念誌』)
ホームプロジェクト・コアカリキュラム
民主主義教育の具体的実践のひとつとしておこなわれたのが、現在でも家庭科でおこなわれている「ホームプロジェクト」である。自己の日常生活の中の課題を科学的に解決していこうとする学習活動で、民主的・合理的・文化的家庭生活の担い手を育てる目的で、新教育の一環として取り入れられたものである。
現在の「総合的学習」に近いことも取り入れられた。経験に基づく問題解決学習は「コアカリキュラム」と呼ばれ、当時小学校を中心に研究が盛んだった。本校は高等学校における実践の研究校に選ばれ、当時の2年3組で「アメリカ文化研究」をコア(核)とするカリキュラムを作り、ほとんどの教科の授業をその研究発表・質疑応答にあてた。受験を控えた生徒たちにとっては、明らかに通常とは異なる授業形態に戸惑いがあった。やがて不満を募らせた生徒たちは、この取り組みを椰楡する川柳や狂歌を黒板に落書きする「反乱」を起こした。
制度の狭間で
制度の狭間で
1947(昭和22)年の学制改革によって従来の学校体系が大幅に変更された。戦前は基本的に義務教育である小学校(6年間)を終えて進学する者は中等学校(5年間、もしくは4年間)一男子は中学校、女子は高等女学校一に進んだ。それが、現在のように小学校6年間と中学校3年間が義務教育となり、その後に高等学校3年間が続くという学校体系になったのである。
これにともない、1948(昭和23)年4月、本校は「神奈川県立横浜第一女子高等学校」と改称した。
高等女学校時代の本校の修業年限は、創立時は4年であったが、1921(大正10)年に5年に改められ(他の高等女学校には4年のままのところもある)、戦時中の1943(昭和18)年からは全国一律に4年に短縮された。そして戦後の1946(昭和21)年、再び5年に戻されていた。
学制改革にともなって、当時本校に在学していた生徒たちは様々な影響を受けた。
1946(昭和21)年3月に本校を卒業した第43期生と、その翌年に卒業した第44期生は、入学年度がともに1942(昭和27)年である。これは、彼女たちの在学中(1946年2月)に、それまで4年に短縮されていた修業年限が5年に戻され、その時点で4年生だった生徒は4年で卒業するか5年に進級するかを選択することが特例として認められたからである。
1947(昭和22)年に新制中学校が発足したため、高等女学校の2、3年生に進級するはずだった生徒は「神奈川県立横浜第一高等女学校付設中学校」生徒となった。翌年には「神奈川県立横浜第一女子高等学校付設中学校」生徒となる。また、新制中学校の発足にともない、1947(昭和22)年度から1949(昭和24)年度にかけては新入生の募集をしていない。
1943(昭和18)年と1944(昭和19)年の入学生は、在学中に高等女学校から新制高等学校に切り替わったため、高等女学校の課程(5年)で卒業するか、新制高等学校の課程(高等女学校入学か
ら6年)で卒業するかを選択する形になった。
めまぐるしく変わる制度の狭間では、下級生が同期生として卒業したり、同級生が一期下の卒業生になるという不思議も当たり前のように起きたのである。
ちなみに、1952(昭和27)年3Aに卒業した第49期生は、横浜第一高等女学校1年→横浜第一高等
女学校付設中学校2年→横浜第一女子高等学校付設中学校3年→横浜第一女子高等学校1年→横浜
平沼高等学校2年→同3年と、6年間を5っの校名とともに本校で過ごしている。
【部活動の再開】
戦後の混乱期のために用具も満足にそろわず施設も荒れていたが、部活動も再開された。運動系、文化系を問わず、「高女」時代同様に華々しい成果をあげていった。
漸く学校の中も落ち着いて来ると、先生方は他校に先がけて文化、体育面に意欲を燃やされ、我がは県下のリーダー的存在になって行った.演劇部、合唱部は県下のトップに位置し、オーケストラ部も此の頃誕生したと思う。英語コンクールにも確か優勝した。又体育各部のほとんどが国体に出場し、県下の優勝は総なめと言った具合であった。(48期・加藤美智子『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
横浜平沼高等学校の誕生
横浜平沼高等学校の誕生
1950(昭和25)年4月、207名の男子生徒が本校の門をくぐった。
すでに1948(昭和23)年から本校は新制の高等学校となっていたが、創立以来の女子校であることには変わりなかった。しかし、神奈Jll県は高等学校の男女共学を実施することになったのである。半世紀にわたる女学校の歴史は幕を閉じ、本校は男女共学の「神奈川県立横浜平沼高等学校」として新たな一歩を踏み出した。
すでに新制中学校で男女共学を経験してきた新入生たちはともかくも、受け入れる上級生や教職員には男子生徒の入学に対して戸惑いも大きかったようである。
男子用便所の増設等、切実な問題もあった。
しかし、男子生徒の存在はほどなく「横浜平沼高校」の新しい伝統を作る原動力となっていく。翠嵐高校との苅抗競技大会である「平翠戦」をはじめとして、「マラソン(駅伝)大会」や「仮装行列(運動会)」などの行事が生まれ、学園生活に彩りを添えていった.また、野球部やラグビー部など、女子校時代にはなかった部が創設されて活躍し、男子の存在を大きくアピールした。
1950(昭和25)年は、神奈川県の高校教育においても、本校にとっても、大きな変化が生じた年である。それまで、戦時中の一時期を除いて入学志願者は全県を対象としていたが、この年から学区制が採用されたのである。本校については、横浜市内の6つの中学校(岡野、西、浦島ヶ丘、老松、神奈川、吉田)の生徒に限定して入学者選抜をおこなう一前記の中学校から公立高校に進学しようとすれば、本校しか選択肢はない一ことになった.この方式は1963(昭和38)年度に改定されるまで続く。
校歌の歌詞が現在のものに改定されたのも1950(昭和25)年である。それまでの歌詞の内容が教育勅語と天皇の治世を称えるものであり、新しい時代にそぐわないとの判断からであった.また、同年におこなわれた創立50周年記念事業の一環として建設された新体育館や、運動部部室、放送設備、開架式図書館など、施設の面でも整備が進んだ。
1950年代は東西冷戦が深刻化した時代である。わが国でも民主化の流れに歯止めをかけるいわゆる"逆コース"が懸念された。そして一方では高度成長の開始にともない、受験競争が激化し始める。そうした状況の中で、当時の生徒たちは社会のあり方や高校生活のあり方に声を発するようになる。
「平沼」の校名
男女共学を実施することにともなって校名の変更が問題になった。新しい校名を決めるにあたって、
「岡野高等学校」、「西高等学校」、「横浜高等学校」、「真澄高等学校」などの候補があがったが、結局、「横浜平沼高等学校」と決定した。これは、本校創立間もないころ、現在の相模鉄道平沼橋駅付近に省線(その後の国鉄、JR)の平沼停車場が開業し、以来、本校が「平沼の女学校」という俗称で横浜の人々に呼ばれていたことによる。なお、「平沼1という校名の採用には、生徒の強い要望と、生徒の意見を尊重する校長以下職員の配慮があった。
新校名決定の過程で印象的だったのが生徒側の動き。いくつかの校名候補が論議された後、職員会議では「横浜岡野高校」案が地名に因むということで固まった。しかし「横浜平沼高校」の名称案をもって、臨時生徒総会を開き、これに抵抗したのが当時の生徒達、説得のために、こもごも演壇に立った教師側の主張に対し、対抗の論陣を張って、頑として譲らない。結局、新校名案は、生徒側の意向を尊重して、「横浜平沼高校」とすることにきまった。着任後、一年足らずの私にとって、この時の生徒達の結束の見事さ、これを容れた校長をはじめ先輩の先生達の生徒を認める寛容さ、今でもこの時の情景は、鮮烈な記憶となって、私の心に刻まれている。(旧職員・伊藤与志和『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
男女共学
創立以来初めて迎えた男子生徒に対して、上級生の女子は批判的な目を向け、両者は反目した。し
かし、半年ほど経過するころには男女共学も軌道に乗るようになる。
机の上を歩き回るいたずら坊やもいましてね。それはもう最初はびっくりしました。でも注意をすると素直に聞く子が多かった様です。先生方もそのうち1質れ、職員室でいたずらが問題になると、あの子も根はいい子なのよとかばいあうようになりました。(旧職員・本山ムメ子、毎日新聞横浜支局編『我が母校・我が友』)
共学が始まってから最初の生徒総会は五月下旬に開かれた。(中略)「上級生は下級生に何を望み、下級生は上級生に何を望むか」というテーマで討論会をおこなったのであるが、上級生と一年男子相互間のアラ探しの応酬となり、しまいには激高した上級生の一人から「男生徒のいうことは恐カツの部類に入る怖しさです」という発言が飛び出す有様であった。(中略)この年の十一月に開かれた弁論部主催の第一回弁論大会は、熱狂的な野次や、激励の言葉が飛んで活発な弁舌合戦となった。男子弁士の多くは「女性化した男生徒よ、奮起せよ」と熱をこめて呼び掛け、男生徒は大いに発憤したものである。一方上級生は「新しい伝統を築け」「よき男女の友情を育てよう1と論陣を張った.この頃になって上級生と男生徒とのギクシャクした関係も収拾され、男女共学は「化合」の段階に入ったようである。(50期・竹中禧支郎『70周年記念誌』)
部活動の発展
運動系・文化系ともに、本校生徒は戦前から顕著な活動成果をあげてきた。ここに新たに男子を加え、その活動はさらに幅を広げていった。男子1期生入学とともに誕生した野球部は1952(昭和27)年には県選抜高校野球大会で準優勝、1955(昭和30)年創部のラグビー部は1958(昭和33)年から5年連続して関東大会出場と、「平沼に男子あり」を大きくアピールした。
ジャージもボールも練習の仕方も分からない。(中略)ただがむしゃらに突っ走ったのです。これも女子校と思われていた平沼にも男もいるのだということを何とか天下に知らせたかったし、自分がラグビー精神とやらにすっかり惚れこみ、こんなに素晴らしく楽しい、そして厳しいスポーツはラグビー以外に無いんだと信じたからです。(55期・野呂和夫『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
ほかにも、バスケットボール部、バレーボール部、バドミントン部、水泳部、体操部、卓球部、柔道部、陸上部、テニス部などが毎年のように全国総体や国体、関東大会に出場した。美術部、音楽部、新聞部、放送部も県下コンクールでそれぞれ優勝するなど、1960年代にかけて本校の部活動は大きく羽ばたいた。なお、現在も本校の特色を示す定期演奏会は1955(昭和30)年に始まっている。
平翠戦
1950年代から1980年まで続けられた名物行事に「平翠戦」がある。
1949(昭和24)年12月6日、当時横浜第二高等学校といっていた横浜翠嵐高等学校は、不審火による火災で校舎の大半を失ったため、1951(昭和26)年まで本校の8教室を使用して授業を続けることとなった。当初は男女共学実施以前であったことから、男子校の横浜第二高等学校と横浜第一女子高等学校の教室とを結ぶ廊下にはハードルが置かれ、「絶対に越えてはならぬ」ときつく言い渡されていたという。こうした縁もあり、またいちばん近い県立高等学校同士ということで1954(昭和29)年から両校の間で体育対抗戦が行なわれるようになった。
正式名称は「平沼・翠嵐体育対抗戦」、翠嵐高校では「翠平戦」と呼ばれた。
両校生徒が熱く燃えたこの対抗戦は、途中二度の中断をはさんで1980(昭和55)年まで25回にわたって続けられ、対戦成績は平沼の12勝13敗だった。
学校生活における葛藤
平沼高校として出発して数年、早くも生徒の間に広がる「無気力」、あるいは、受験体制に組み込まれる中で社会的関心が希薄になっていくことを危惧する声もあがり始めた。1954(昭和29)年度の3年生浅野基明が『花橘』第5号に「高校の進むべき道」と題した文を寄せている。
…ここで問題となるのは現在の大部分の生徒を支配している個人主義的無関心、無気力な態度であります.ある先生はこれをニヒリズムと評されました。(中略)僕は平沼高校に限らず広く現代の青年に通ずるこの無気力なニヒルな気持を打破する方向として、現実逃避に向かうよりむしろ、積極的にもっと社会に対して関心を持ち自己の生活の矛盾をはっきり認識して、社会に対し直接働きかける行動をとる実践的活動によって自己を発見して行くことが大切だと思います。この意味に於いて今度の原水爆反対決議は非常に意義のあるものだったと思います。
この年、アメリカの水爆実験で日本の漁船第五福竜丸が被爆して死者が出たことから、世界的な原水爆禁止運動が盛り上がった。当時の生徒会は生徒総会で原水爆実験に反対する決議をあげたのである。浅野はこれを生徒の間に漂う「ニヒリズム」打破の契機ととらえた。しかし、この決議は学校側の判断で許可されなかった。そこで彼は続ける。
先生方及び父兄の方々にお願いしたい。現代の青年の間に拡がっているニヒリズムは決して観念的思想的なものではありません.問題は極めて現実的な所にあるのです.ですからこれを解決するには、まず青年の不平不満をそのまま聞いて下さることが必要であります・その身近な不平不満がはじめどのような方向へ向けられようともそれが当然どちらへ向けられるべきかをはっきりしてやることです。(中略)そして社会的な現実に眼をつぶった人格というものがいかに観念的、抽象的なもので、いざ現実に対するともろくも崩れ去って行くものであることは皆さん自身が身にしみてお感じのことと思います。(下略)
《佐藤秀三郎校長の『花橘』巻頭言から》
第10代校長佐藤秀三郎先生は、ベルリンオリンピックにマラソンコーチとして遠征した経歴を持ち、神奈川県体育界の指導的立場にあった人物で、1950(昭和25)年から1959(昭和34)年まで本校校長を務められた。佐藤先生による『花橘』の巻頭言には、当時の世相が反映されているとともに、現代になお通じると思われる課題が語られていて興味深い。
従来なれてきた占領下の自己喪失の虚脱の状態から一刻も早く抜け出して、この困難な立場にむかって国民の一人一人が確かな足取りをもって進み入らねばならないのである。すなわち、自主独立の精神を堅持することが今日ほど要求されていることはない。これまでのように何事も「進駐軍の命により」とうたわねば実行されなかった情けないことでは日本の将来はいつまでたっても打開できないであろう。命がけの覚悟のもとに雄々しく立ちあがることを諸君に求めたい。〈『花橘』第2号(昭和26年12月発行)〉~対日講和条約調印(9月)・連合軍による占領からの独立を受けて~
学校教育においても、教育基本法、学校教育法といった様な新軌道が設置され、また校内に於いても生徒会、ホームルーム、クラブというような新軌道が一応敷かれているのではあるが、各人がこれらの諸軌道を巧く乗りこなすように心がけないと、草が生え、土砂をかぶって、埋没される危険性が多分にある.それには総ての人達が熱心に絶えずその上を走り廻ることが大切である.諸君はクラスというひとつの車、すなわち、クラスカーなのであって、各車輪が諸君の各々なのである。その各車輪はどれもその軌道にピッタリと含っていて、一人でもお客気分で引きずられるものがあると、軌道も傷められるし第一そのクラスカーが円滑に進まないことになる。またその軌道が悪いなら修正もし、必用に応じては更に増設してその運転を十分円滑ならしめるようつねに心がけなければならない。最近特に道徳教育がやかましくO耳ばれているようであるが新軌道はモラルの線と平行なのであって諸君の両車輪はガッチリとその上にまたがっていなければならない.これがしっかり出来ていないと脱線息子や無軌道娘が生まれるのであって、この様な道徳の再教育を必用とする人間が生まれるのは、全くその両車輪が軌道にピッタリ乗っていないためなのである.〈『花橘』第4号(昭和28年12月発行)〉~昭和25年ごろから青少年の非行化が社会問題化し、朝鮮戦争も勃発する中で道徳教育の振興が話題とされるようになった~
戦後既に十二年を経過し、国民の勤労努力によって敗戦後のEヨ本もあらゆる面に於いて驚くべき再興を見た。殊に昨年は国際連合の一員として正式に加盟を認められ世界の檜舞台に立って堂々と闊歩出来ることになってのであるが、これからの日本の生きる道はアジアの諸国をはじめ世界の国々と友好協力して行く以外にはないと思う。従って日本の将来を背負う青少年諸子は祖国愛に燃えると共に広い世界的視野と豊かなヒューマニズムに裏付けられた人間となるべく教養を身にっけなければならない。(中略)本校は戦災も受けずにすんだが、此の幸いが不幸にならぬようお互いが努力しなげればならないし又各方面の一層のご協力をお願いしなければならない。それには現在の校舎備品等を大切に愛用することだ。そんなことは極めて簡単なことだと思うが、徒らに乱暴に使用して破損したり汚損したりして平然としているものが仮にあるとすれば、斯うした不心得の者の行為が楽しかるべき学校生活をどれ程暗くし不自由なものにすることであろう。
我々の学校を我々の手によって築きあげる学校愛の情熱を一人残らず燃やしてほしい。
〈『花橘』第8号(昭和32年12月発行)〉~日本の国際連合加盟(前年12月)を受けて~
花橘(戦後分)
横浜平沼高校の発展・21世紀へ
横浜平沼高校の発展・21世紀へ
1960年代に入ると日本全体が高度経済成長にわいた.それにつれて大学への受験競争が激しくなる。横浜平沼高等学校もコース制、三学期制を採用し、50分授業になった。ベビーブームの波が高等学校に押し寄せた1963(昭和38)年、本校は初めて1学年10クラス、1クラスの生徒数が50人を超えるクラス編成を経験した。生徒数増加に対応して、朝礼、創立記念行事などが新設され、健脚大会も復活、修学旅行もコース別実施になった。
1960年代末、全国的に学園紛争がわき起こった.ベトナム戦争の激化に対する反戦運動、日米安保条約の延長問題、そして教育管理をめぐる不満などが大学だけでなく、高等学校にも及んだのである。神奈川県内でも、川崎高校、横浜翠嵐高校、希望ヶ丘高校などでは特に紛争の規模が大きかった。その中で、学校運営が大幅に改められるなどの影響がもたらされた.本校では他校のような紛争はなかったが、1969年を境に卒業式は簡略化され、服装規定も改訂された。教育課程も必修・選択制に変更になった。
高度経済成長は首都圏への人口集中をもたらし、また、第二次ベビーブームの到来に対応すべく、神奈川県は百校計画をスタートさせた。この間、本校では男子生徒の減少傾向があらわれ始めた。
東西の冷戦が終わったころ、日本はバブル経済のただ中にあった。本校の校舎改築はその最後を飾る出来事であった。改築された現校舎は県立高校初めての高層ビルで、エレベーターや全館空調設備を備える画期的な建物である.一方、校舎改築にともなう一時的な移転の中で運動会、学校キャンプ、スケート教室などの行事が消滅あるいは中断していった。
横浜平沼高校の歴史はそのまま20世紀の歴史でもある。明治、大正、昭和、平成の世の中を見つめ、第一次世界大戦も、関東大震災も、第二次世界大戦もくぐり抜けてきた。2000(平成12)年には創立百周年を迎え、本校にふさわしく盛大な音楽式典でその節目を祝った。
2002(平成14)年度から学校5日制が実施され、その翌年度からは新教育課程が施行される.それに合わせて、本校では2学期制を採用した.また、大幅な教育課程の改定や少人数学級の取り組みなど、従来にない変化が起きつつある。
本校は本格的に第2世紀の歩みを始めた。
模索する生徒会
戦後の生儲治の環として始められた生徒会活動であっkoしかし次第に生徒会本部役員と一般生徒の間の認識には隔たりが生じるようになった。
1961(昭和36)年3月、前期生徒会役員選挙がおこなわれたが、会長候補に立候補した者はなく、副会長を代行会長として新年度を迎えた。7月の後期生徒会役員選挙では立候補者がだれもいないために、選挙自体が打ち切りとなってしまった。そして10月、部長会議一一当時、生徒会の運営にあたる6っの部会(文化部・体育部・庶務部・会計部・記録部・財務部)が設けられており、その代表者から構成される一一は突然解散してしまう。前期代行会長であった市原里恵は『花橘』第12号にこう書いている。
私達部長会議が解散したのは、半分は自分たちの責任でもある生徒会の低調を何とかして突き破ろうと考えた末の最後の手段であった。三年生の方からはお叱りを受けたし、正しいことではないということを百も承知での上である。もう見栄も外聞もなかった。少しでも多くの会員に生徒会のことを考えてもらうためには、こうするより方法がなかったのだ.つまり、私が四月以来、常に感じていたことは、一般会員と役員との間に一本の線が引かれているのではないかということである。会員には生徒会イコール生徒会役員であって自分達の生徒会だという意識がないのだ。そこで、役員がいなくなってしまえば機関がなくなってしまえば「誰かがやってくれるだろう」という考え方は通用しなくなる。誰もいないのだから千三百人の会員一人一人がやらなければならない。
部長会解散を受けてクラス討論会などもおこなわれ、ようやく12月に後期役員選挙が実施されて、会
長以下新部長会議が発足した。
1962(昭和37)年度も生徒会は多難であり、3月段階では前期役員の立候補者が出ず、4月になってやっと会長以下の部長会議が発足した。そして、後期執行部は会長以下全員が1年生で構成されるという事態となった。
復刊された「花橘」は、文芸誌であるとともに生徒会の機関紙的な性格も合わせ持っており一一1965(昭和40)年2月発行の第15号までの発行者は生徒会であった一一、毎号、生徒会活動のページが設けられていた。そこには、生徒会と一般生徒の溝を埋めようとする役員たちの願いが綴られている。
私が生徒会活動の中軸として、その仕事に携わった時、真先に感じた事は執行部の孤立という大きな障害、そしてその障害をのりこえるには、並々ならぬ努力と忍耐が必要だという事です。(中略)私があぜればあせるほど、執行部と生徒は遊離していった。(中略)だからといって我々ははじめから総てをあきらめるというのではなく、少しでもその理想に近づくように、各人がそれぞれ自己を良くみつめる必要がある、というのです。各人が自己を厳しく批判する事によって、執行部が懸命にからまわりするよりも多大な成果をあげえることができると堅く確信しています。(1962年度前期生徒会長・鈴木繁『花橘』第13号)
高校紛争の余波
高校紛争の余波
1969(昭和44)年、ベトナム戦争に対する反戦運動や社会体制・管理教育に反発する潮流は全国の高校にも及んだ。県内では、川崎高校、鶴見高校、希望ヶ丘高校、平塚江南高校などで生徒たちが校舎の一部を封鎖した。横浜翠嵐高校でも生徒が反戦や卒業式粉砕を掲げて市内をデモ行進した。本校には他校のような紛争は起こらなかったが、改革の波はいろいろなところにあらわれた。
この年の11月、生徒会は生徒集会を開き、以下の6点からなる質問書を学校に提出した。
①定期試験の意義について(目的・評価との関係・出題方法・全廃論と臨時試験)
②通知簿の意義について(目的・記載事項・全人的評価の表し方)
③評価の意義について(目的・方法・評価の不平等・特に相対評価と絶対評価)
④内職の是非について(先生、生徒の姿勢科目選択制の完備との関係)
⑤校則(生徒心得・服装規定)についての方針について
⑥生徒の学習意欲、先生の指導方法、先生と生徒の交流について
これについて生徒会執行部は校長と懇談会を持ち、さらに公開討論会を開いている。学校は、この年から翌年にかけて、立て続けに学校改革案を発表していった。卒業式は簡略化され、「君が代」と県教委や県議の祝辞は除き、送辞・答辞の名称を在校生代表の言葉・卒業生代表の言葉に変更した。服装規定も改訂し、学生帽の着用を自由化した。それまでの級長・副級長を学級委員に変更し、任命制をやめた。さらに学級委員を補佐しながらクラス・LHR運営にあたるLHR委員が新設された。
次項で触れる、1970(昭和45)年度から教育課程においてコース制を廃止し、必修と生徒の希望による選択の二本立てとなったことも改革の一環である。
1971(昭和46)年には「学校内における掲示」問題が起こっている。生徒会が掲示を承認した、映画「水俣」・「第2回神奈川高校生集会」・「沖縄返還協定反対」の3種のポスターが学校側によってはがされたのである。生徒会は職員との討論会を開き、学校側の「掲示に対する態度」を職員会議で決めるように要求した。結局、いずれのポスターの掲示も認められることになった。この件に関し、当時の生徒会副会長は『花橘』第22号に次のように記す。
学校側の決定により、これらのポスターはどれも掲示できるようになり、無断で一方的にはがされる
ことはなくなりました。又、そうでなくてはなりません。(中略)ともあれ、『生徒の意志が無視される状態』を生徒会と学校側とで話し合い、本来あるべき姿に正されたというのは、ある意昧では「進歩」と言えるかもしれません。これからも、生徒会と学校側との意見が対立した時には、生徒全体の話し合いを通じて、より良い道を追求して行くべきだと思います。
全生徒が生徒会活動に熱心であったのでも、生徒会役員のもとに一丸となって行動したわけでもない。1960年代から70年代にかけて、生徒会役員はその活動の不活発さを指摘し、高校生の間に広がる「三無主義」(無気力・無関心・無責任)を問題にしている。しかし、そこにはその打破を願う問題提起が絶えずなされていた。
平高生の、いわゆる「三無主義」をなくすためには(中略)、さしあたって改善すべき事として、次の二点があげられる。生徒の「やりたいこと」と結びつく生徒会活動を行う。授業を、さらに深く広い一教科書の筋を追っていく、といった様な授業とは正反対の一ものに改善する。これらの改善だけでも、生徒会活動の活発化や、授業を少しでも有意義な楽しいものにしていく、ということがある程度は実現できる。しかし、現在の受験体制がある限り、その重圧による平高生の三無主義化を完全に防ぐことは不可能である。(中略)高校生は「未来」である。その高校生が、自分の成長にとって何んの意昧もない大荷物を背おって、三年間を歩き続けなければならない現状を、できるだけ早くなくしていく必要がある。(1971年度後期生徒会長・佐々木弘美『花橘』第22号)
教育課程の変遷
新制高校が発足したころの教育課程は大幅な科目選択制と単位制の採用を中心としていたが、1950年代半ばから始まった高度経済成長は高校の教育課程にも変化をもたらした。大学進学を中心とした「進路指導の強化」と「学習指導の徹底」が課題とされるようになるのである。
本校では、1956(昭和31)年度からA~Dの4コース制をとっている。Aは文科系、B・Cは理科系、Dは家庭科系である。このころはHRは男女別編成で、授業も能力別に編成されていた。4コースは1959(昭和34)年度にA(文系)、B(理系)の2コースに再編された。
一このころから大学受験のスケジュールに合わせた「学校行事の適正化」も進められた。それまで3年次に実施されていた修学旅行が2年次に移されたり、文化祭を隔年、あるいは3年に一度の実施としたことなどである。
文系・理系のコース制は、L・Sと呼称を変えたり、国公立、私立、芸術・家庭科などに細分化されながら1969(昭和44)年まで続いた。
1969(昭和44)年秋、多くの高校で教育課程の変更がおこなわれた。基本はコース制の廃止と生徒の希望による選択制の採用、グレード別レッスンの廃止であった。本校も1970(昭和45)年度からコース制を廃止して、必修・選択の二本立てとなった。その後は一時期を除いて、2年までは原則的に共通科目を履修して基礎学力を充実し、3年次は逆にできる限り選択科目を増やすという教育課程が定着した。
2002(平成14)年度から学校5日制が導入されると、授業時間の確保が切実な課題となった。本校では従来の3学期制から2学期制への転換で対応した。また、2003(平成15)年度入学生からは2年次において1~皿型の中から一つを選択し、3年次においては自由選択制を基本とする方式に改められた。
高校進学率の上昇
高度経済成長にともなって、人口の都市集中が顕著となった。また、戦後のベビーブームの到来もあって、高校進学率が上昇していった。神奈川県における高校進学率は、1962(昭和37)年に70%を超え、1965(昭和40)年に80%、1970(昭和45)年には90%を超えることになる。
新制高校となってから神奈Jll県は全県19学区、横浜市内は1高校1学区の小学区制であったが、高校進学率の上昇に対応すべく、1963(昭和38)年、全県9学区、横浜市内は北・中・南3学区へと変更された。このうち、横浜中部学区(現在の横浜中部学区と西部学区からなる)は本校・希望ヶ丘と市立の桜丘・戸塚の4高校であった。やがて本校は1965(昭和40)年に、各学年10学級、全校生徒1617名という史上最大の在籍数となり、1学級の生徒数が50名を超える状態がうまれた。その後の県立高等学校の増加を横浜中部学区についてみると、下表の通りである。
1973(昭和48)年からは「百校計画」が開始され、高校の新設が相次いだ。この間、全県で7割以上の高校が1学年12学級、全校36学級を経験している(本校は最大でも30学級)。
当初4校でスタートした横浜中部学区は、1981(昭和56)年、横浜中部学区9校(その後、上矢部が新設されて10校)と横浜西部学区9校に2分された(柏陽はこのとき横浜南部学区に編入)。
現在、神奈川県では少子化にともなう高校進学人口の減少と「特色ある高校づくり」の観点から、高校の統廃合と新しいタイプの高校設置が始まっている。
現校舎の建設
現校舎の建設
1987(昭和62)年、神奈川県の百校計画終了を受けて既設校の校舎の見直しが始まり、その一番手として本校の建て直しが計画された。移転準備から外構工事の完成まで、4年をかけての大事業だった。
プレハブの仮設校舎は清水ヶ丘高等学校に隣接するグランドに建てられた。1990(平成2)年から2年間の仮設校舎における生活は、プレハブであるために夏の暑さや冬の寒さは尋常ではなかった。部活動も校外の施設をその都度借りておこなうという状態であった。
入試と入学前のオリエンテーションは旧校舎で行いましたが、入学式は青少年センターで行い、それ
からは仮校舎での生活が始まりました。一番の問題は、夏に教室の温度が四十度近くにも上昇すると
いうことです。さすがに授業どころではなくなり、うちわや扇風機が必需品でした。窓には簾が掛け
られ、天井の工事等の対策がとられました。(90期・金田尚志『創立百周年記念誌』同窓会編)
1992(平成4)年4月、現校舎が完成し、本校は新たなスタートを切った。その校舎は他の県立高等学校にはない恵まれた諸施設を備えた最新式のものであるが、そこには、新しさの中にも、かっての校舎にあったさまざまなデザインが随所に配置され、"伝統"を偲ばせている。校舎外装の「藤色」も、初代校舎のころから藤の花が本校の名物の一つであったことに因んでいる。
百周年を期して
百周年を期して
2000(平成12)年10月28日、創立百周年記念音楽式典が横浜みなとみらいホールにおいて挙行された。ステージ上にはオーケストラ部・吹奏楽部・合唱部の部員に、音楽選択クラス生徒全員、そして、卒業生からなる演奏者が居並び、壮大な演奏をもって百周年を祝った。
この年、記念音楽式典だけではなく、藤棚の設置、記念美術展・歴史資料展の開催、百周年記念誌の発行、記念碑設置、新校旗の作成など、さまざまな記念事業がおこなわれた。そこには世代を超えた「熱い心」が響いていた。生徒百周年実行委員会の一員であった当時の3年生松崎玲は記す。
私達は、新聞を発行するため様々な先輩方とお会いし、たくさんのお話しを聞かせて頂いた。(中略)当時の平沼の様子、学生生活、それぞれの夢、百周年・平沼への思い…。そんな話を聞く中で、ふと私は不思議な感覚に捕らわれた。時代も、世相も、何もかもが移り変わっていく中で、変わらずあり続ける"平沼"という感覚。百年という大きな時の流れの中には、確かに「熱い心」が存在していると感じた。その平沼生の「熱い心」がひとつに結集したのが、MMホールで行われた百周年記念音楽式典ではないのだろうか。続々と入場してくる先輩方。そして、制服を着た現在の平沼生達。あっという間に会場は満員になった。そこには、年月を飛び越えて一体となって歌う平沼生達の姿があった。感動。
(中略)百年分の思いが渦巻いていた。(『花橘』第51号)
創立百周年記念事業を一過性のもので終わらせないために始められたのが「先輩セミナー」である。伝統とは「人」である。各方面で多様に活躍されている卒業生各氏から伝統を現在の生徒諸君に継いでもらうべく、生徒諸君には多様な関心を呼び起こしてもらうべく企画されたものである。
この事業は、2000(平成12)年には1年から3年までの全クラスにて、2001(平成13)年からは1年各クラスにておこなわれている。
旧校舎から仮設校舎へ、さらに現校舎へと移転した前後数年間に、それまで受け継がれてきたいくつかの行事が取りやめになっていた。しかし、2002(平成14)年、平沼祭体育部門として運動会が10年ぶりに復活した。
10年ぶりの体育祭を復活させるのはとても大変で、やってる途中でやめたくなったげれど、一緒にがんばってくれた友達や後輩、先生がいてくれたからやりとげることができたと思います.つらくて大変だったからこそ、返ってくるものも大きかった。高校生活の中で一番の思い出になりました。来年の体育祭は今年よりももっともっといいものにして欲しい。誰かがやるから自分は何もしないんじゃなくて、みんなで体育祭をつくりあげて下さい。(2002年度3年生・北口宏子)
ことは行事だけではあるまい。第2世紀の歩みを始めたいま、これからも受け継ぐべき"伝統"を問い直し、新たな"創造"を見出すことが求められている。
行事今昔ー修学両行
行事今昔ースキー教室・学校キャンプ
行事今昔ー音楽会→定期演奏会・合唱コンクール
行事今昔ー学芸奨励会・学芸会→文化祭・平沼祭
行事今昔ー体育奨励会→運動会・体育祭
行事今昔ー耐久徒歩→マラソン大会・健脚大会
行事今昔ーファウスト
4つの「卒業生代表のことば」から
4つの「卒業生代表のことば」から
卒業式に際して卒業生代表が言葉を述べる。現在は「卒業生のことば」であり、かつては「答辞」といわれた。ここに、本校が歩んできた4つの校名のころのものを一つずつ抄録する。
いずれも、そのときどきの世相を反映しており、貴重な証言である。
●1925(大正14)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立高等女学校〉
・・・今の時代は確固とした意志を有った、そして健実な信念を有った女性を要求して居ります。私共はこの時代の理想に応ずるには余りにはなれ過ぎて居るやうに思はれてなりませぬ。今日より現実の世の中に一歩一歩踏み入るのでございます。定め難い行手、そこにはどんな苦しみが、悲しみが私共を迎へて居りませう。実生活には経験した者のみの知る苦しみと喜びがあると聞きました。その申告な苦しみと喜びを想像して、私共の心は不安に乱れるのでございます。・・・
●1945(昭和20)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立横浜第一高等女学校〉
硫黄島遂に敵手に落つの悲報に接し、一億民草憤激新たなる今日、長官閣下御臨席の下にかくも盛大なる卒業証書授与式をお挙げ下さいました事は、私共一同にとりまして身にあまる光栄でございます。(中略)
戦局苛烈化すると共に男子学徒は出陣し、私共女子学徒もなつかしい校舎を後に兵器の増産に挺身いたして参りました。諸先生方の御指導の下、皇国の重大な生産に従事して常に強く明るく学徒たる誇りを胸に勤労即教育の尊い体験をさせて戴きました。刻々と迫りつつある危機存亡の秋に当って、御慈愛深い諸先生の御膝下をはなれ、慣れ親しんだ在校生の皆様と御別れして実社会に出て行く私共の責務の重大さは、日本女性として肇国以来始めてのものでございます。
各々国家の要求に応じ与へられた分野に於て、大東亜永遠の平和を目ざし、心身を捧げて御奉公申上げ、大御心を安んじ奉り、南海の孤島に散華せられたる幾多の同胞の尊い忠霊に対しお報い致す覚悟でございます。・・
●1950(昭和25)年3月の「お別れの言葉」から
〈神奈川県立横浜第一女子高等学校〉
…顧みすれば、この六ケ年の学生生活は戦争、敗戦、終戦処理と相次ぐ混乱の中に終始致しました。我が国が未だ曾て経験しなかった国民思想の転換、世相の変化と共に、本校に於きましても女学校から高等学校へと学制の根本的な改正が行なはれ、そしてそれは私達にとりまして燃え立つ希望ではありましたけれども、又未知の困難な道でも御座いました。(中略)校内には生徒の自治活動の点におきましても自由と平和の精神とが訪れてまいりました。(中略)今私達が踏み出す社会は思想上にも経済上にも混沌として居ります。この時に当たって高等学校を卒業する私達は女性の中堅として正しい道を切り開いて行く重大な責任を持っているのでございます。私達は実社会に出る者も、家庭に入る者も又進学する者も雄々しく文化日本建設に蓮進する覚悟でございます。・・・
●1974(昭和49)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立横浜平沼高等学校〉
・・・この平沼高校はいうまでもなく、急速に発展しっつある横浜の市街地のすぐ側にあり、近年その周囲の環境の変化には著しいものがあります。又、それと同時に誘発された、騒音の問題や、空気の汚染問題、地盤沈下の問題等は、平沼高校に、より大きな影響として現れております。たとえば、春から夏にかけて道路ぞいのクラスのひどい騒音、体育館の床の極端なゆがみ、壁のひびわれ、数え上げればかなり多くの現象が上げられます。(中略)三無主義、更に四無主義という声が聞かれるようになってから、かなりの時間が経ちました。しかし、一人一人がそれを厳然たる事実としてとらえているのでしょうか。私達一人ひとりは何に対しても責任を持たず、やる気を起こさず、そして感動するという事がないのでしょうか。又何に対しても関心を示さないのでしょうか。・・・
あとがき
あとがき
創立当初の神奈川県高等女学校から現在の横浜平沼高等学校にいたるまでの百年の歴史は、もちろん50ページほどの内容では語りつくすことなどできるものではない。
「はじめに」で触れたように、本校の歴史は20世紀という時代の動きと密接に関わっており、この冊子もそのことを意識して編集されている。本校の歩みにっいてひと通り学んだ後は、それを糸口にして各自が興味を持った時代や事柄について、さらに深く学んでみることを勧めたい。
最後に、本校図書館が所蔵している学校の記録を紹介しておく。これらは、本文中に引用した同窓生や旧職員の証言の出典であるが、引用した部分はごく一部に過ぎないので、是非図書館に足を運び、手にとってみてほしい。さまざまな時代の記録を閲覧することで、時代の流れの中で移り変わったものもあれば、また脈々と受け継がれてきたものもあることに気づくことだろう。
『花橘』・…その歴史と性格については本文(18~19ページ、34~35ページ)で触れている。戦前は1910(明治43)年から1940(昭和15)年まで発行。戦後は1950(昭和25)年に復刊されて現在に至っている。
『校友時報』・『学校時報』…・1931(昭和6)年に、それまで『花橘』に収録されていた学校行事の記録の部分を分離して発行したもので、1933(昭和8)年第5号まで発行。同年『学校時報』と名称を変更し、1942(昭和17)年発行の第21号まで続いた。
『周年記念誌』・…創立10周年・20周年・30周年・40周年・50周年・70周年の記念誌は『花橘』の特集号として発行された。『八十年史』は写真と年表を主にしたもの。『創立九十周年、新校舎落成記念誌』は写真・年表・回想文で学校の歴史をたどり、真澄会(同窓会)の歩みや生徒の現況もまとめられている。『創立百周年記念誌』は、学校編と同窓会編の2冊からなる。学校編は社会や教育制度の移り変わりに沿って学校の歴史を綴ったもの。校史部分を4部構成とし、それぞれに年表を付した。そのほかに旧職員の回想や、旧職員・現職員一覧等の資料を収録した。なお、それまでに発行された周年誌の誤りを可能な限り修正してある。同窓会編は1期生から100期生までの証言・回想を収録し、真澄会の歴史、座談会等も掲載されている。それぞれの時代の同窓生の証言には興味深いものがある。
写真に関しては松島写真館によって撮影された学校創立以来の数多くの写真が保存されている。松島写真館ならびに本校卒業生でもある細水写真館には本書の作成にあたっても多大なご協力を頂いた。
副校長(当時) 益子 晋