制度の狭間で

制度の狭間で

1947(昭和22)年の学制改革によって従来の学校体系が大幅に変更された。戦前は基本的に義務教育である小学校(6年間)を終えて進学する者は中等学校(5年間、もしくは4年間)一男子は中学校、女子は高等女学校一に進んだ。それが、現在のように小学校6年間と中学校3年間が義務教育となり、その後に高等学校3年間が続くという学校体系になったのである。
これにともない、1948(昭和23)年4月、本校は「神奈川県立横浜第一女子高等学校」と改称した。

高等女学校時代の本校の修業年限は、創立時は4年であったが、1921(大正10)年に5年に改められ(他の高等女学校には4年のままのところもある)、戦時中の1943(昭和18)年からは全国一律に4年に短縮された。そして戦後の1946(昭和21)年、再び5年に戻されていた。

学制改革にともなって、当時本校に在学していた生徒たちは様々な影響を受けた。
1946(昭和21)年3月に本校を卒業した第43期生と、その翌年に卒業した第44期生は、入学年度がともに1942(昭和27)年である。これは、彼女たちの在学中(1946年2月)に、それまで4年に短縮されていた修業年限が5年に戻され、その時点で4年生だった生徒は4年で卒業するか5年に進級するかを選択することが特例として認められたからである。
1947(昭和22)年に新制中学校が発足したため、高等女学校の2、3年生に進級するはずだった生徒は「神奈川県立横浜第一高等女学校付設中学校」生徒となった。翌年には「神奈川県立横浜第一女子高等学校付設中学校」生徒となる。また、新制中学校の発足にともない、1947(昭和22)年度から1949(昭和24)年度にかけては新入生の募集をしていない。
1943(昭和18)年と1944(昭和19)年の入学生は、在学中に高等女学校から新制高等学校に切り替わったため、高等女学校の課程(5年)で卒業するか、新制高等学校の課程(高等女学校入学か
ら6年)で卒業するかを選択する形になった。
めまぐるしく変わる制度の狭間では、下級生が同期生として卒業したり、同級生が一期下の卒業生になるという不思議も当たり前のように起きたのである。
ちなみに、1952(昭和27)年3Aに卒業した第49期生は、横浜第一高等女学校1年→横浜第一高等
女学校付設中学校2年→横浜第一女子高等学校付設中学校3年→横浜第一女子高等学校1年→横浜
平沼高等学校2年→同3年と、6年間を5っの校名とともに本校で過ごしている。


【部活動の再開】
戦後の混乱期のために用具も満足にそろわず施設も荒れていたが、部活動も再開された。運動系、文化系を問わず、「高女」時代同様に華々しい成果をあげていった。


漸く学校の中も落ち着いて来ると、先生方は他校に先がけて文化、体育面に意欲を燃やされ、我がは県下のリーダー的存在になって行った.演劇部、合唱部は県下のトップに位置し、オーケストラ部も此の頃誕生したと思う。英語コンクールにも確か優勝した。又体育各部のほとんどが国体に出場し、県下の優勝は総なめと言った具合であった。(48期・加藤美智子『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)

2022年06月23日