横浜平沼高校の発展・21世紀へ

横浜平沼高校の発展・21世紀へ

1960年代に入ると日本全体が高度経済成長にわいた.それにつれて大学への受験競争が激しくなる。横浜平沼高等学校もコース制、三学期制を採用し、50分授業になった。ベビーブームの波が高等学校に押し寄せた1963(昭和38)年、本校は初めて1学年10クラス、1クラスの生徒数が50人を超えるクラス編成を経験した。生徒数増加に対応して、朝礼、創立記念行事などが新設され、健脚大会も復活、修学旅行もコース別実施になった。
1960年代末、全国的に学園紛争がわき起こった.ベトナム戦争の激化に対する反戦運動、日米安保条約の延長問題、そして教育管理をめぐる不満などが大学だけでなく、高等学校にも及んだのである。神奈川県内でも、川崎高校、横浜翠嵐高校、希望ヶ丘高校などでは特に紛争の規模が大きかった。その中で、学校運営が大幅に改められるなどの影響がもたらされた.本校では他校のような紛争はなかったが、1969年を境に卒業式は簡略化され、服装規定も改訂された。教育課程も必修・選択制に変更になった。
高度経済成長は首都圏への人口集中をもたらし、また、第二次ベビーブームの到来に対応すべく、神奈川県は百校計画をスタートさせた。この間、本校では男子生徒の減少傾向があらわれ始めた。
東西の冷戦が終わったころ、日本はバブル経済のただ中にあった。本校の校舎改築はその最後を飾る出来事であった。改築された現校舎は県立高校初めての高層ビルで、エレベーターや全館空調設備を備える画期的な建物である.一方、校舎改築にともなう一時的な移転の中で運動会、学校キャンプ、スケート教室などの行事が消滅あるいは中断していった。
横浜平沼高校の歴史はそのまま20世紀の歴史でもある。明治、大正、昭和、平成の世の中を見つめ、第一次世界大戦も、関東大震災も、第二次世界大戦もくぐり抜けてきた。2000(平成12)年には創立百周年を迎え、本校にふさわしく盛大な音楽式典でその節目を祝った。
2002(平成14)年度から学校5日制が実施され、その翌年度からは新教育課程が施行される.それに合わせて、本校では2学期制を採用した.また、大幅な教育課程の改定や少人数学級の取り組みなど、従来にない変化が起きつつある。
本校は本格的に第2世紀の歩みを始めた。

模索する生徒会

戦後の生儲治の環として始められた生徒会活動であっkoしかし次第に生徒会本部役員と一般生徒の間の認識には隔たりが生じるようになった。
1961(昭和36)年3月、前期生徒会役員選挙がおこなわれたが、会長候補に立候補した者はなく、副会長を代行会長として新年度を迎えた。7月の後期生徒会役員選挙では立候補者がだれもいないために、選挙自体が打ち切りとなってしまった。そして10月、部長会議一一当時、生徒会の運営にあたる6っの部会(文化部・体育部・庶務部・会計部・記録部・財務部)が設けられており、その代表者から構成される一一は突然解散してしまう。前期代行会長であった市原里恵は『花橘』第12号にこう書いている。


私達部長会議が解散したのは、半分は自分たちの責任でもある生徒会の低調を何とかして突き破ろうと考えた末の最後の手段であった。三年生の方からはお叱りを受けたし、正しいことではないということを百も承知での上である。もう見栄も外聞もなかった。少しでも多くの会員に生徒会のことを考えてもらうためには、こうするより方法がなかったのだ.つまり、私が四月以来、常に感じていたことは、一般会員と役員との間に一本の線が引かれているのではないかということである。会員には生徒会イコール生徒会役員であって自分達の生徒会だという意識がないのだ。そこで、役員がいなくなってしまえば機関がなくなってしまえば「誰かがやってくれるだろう」という考え方は通用しなくなる。誰もいないのだから千三百人の会員一人一人がやらなければならない。

 

部長会解散を受けてクラス討論会などもおこなわれ、ようやく12月に後期役員選挙が実施されて、会
長以下新部長会議が発足した。
1962(昭和37)年度も生徒会は多難であり、3月段階では前期役員の立候補者が出ず、4月になってやっと会長以下の部長会議が発足した。そして、後期執行部は会長以下全員が1年生で構成されるという事態となった。
復刊された「花橘」は、文芸誌であるとともに生徒会の機関紙的な性格も合わせ持っており一一1965(昭和40)年2月発行の第15号までの発行者は生徒会であった一一、毎号、生徒会活動のページが設けられていた。そこには、生徒会と一般生徒の溝を埋めようとする役員たちの願いが綴られている。


私が生徒会活動の中軸として、その仕事に携わった時、真先に感じた事は執行部の孤立という大きな障害、そしてその障害をのりこえるには、並々ならぬ努力と忍耐が必要だという事です。(中略)私があぜればあせるほど、執行部と生徒は遊離していった。(中略)だからといって我々ははじめから総てをあきらめるというのではなく、少しでもその理想に近づくように、各人がそれぞれ自己を良くみつめる必要がある、というのです。各人が自己を厳しく批判する事によって、執行部が懸命にからまわりするよりも多大な成果をあげえることができると堅く確信しています。(1962年度前期生徒会長・鈴木繁『花橘』第13号)

2022年06月30日