横浜平沼高等学校の誕生
横浜平沼高等学校の誕生
1950(昭和25)年4月、207名の男子生徒が本校の門をくぐった。
すでに1948(昭和23)年から本校は新制の高等学校となっていたが、創立以来の女子校であることには変わりなかった。しかし、神奈Jll県は高等学校の男女共学を実施することになったのである。半世紀にわたる女学校の歴史は幕を閉じ、本校は男女共学の「神奈川県立横浜平沼高等学校」として新たな一歩を踏み出した。
すでに新制中学校で男女共学を経験してきた新入生たちはともかくも、受け入れる上級生や教職員には男子生徒の入学に対して戸惑いも大きかったようである。
男子用便所の増設等、切実な問題もあった。
しかし、男子生徒の存在はほどなく「横浜平沼高校」の新しい伝統を作る原動力となっていく。翠嵐高校との苅抗競技大会である「平翠戦」をはじめとして、「マラソン(駅伝)大会」や「仮装行列(運動会)」などの行事が生まれ、学園生活に彩りを添えていった.また、野球部やラグビー部など、女子校時代にはなかった部が創設されて活躍し、男子の存在を大きくアピールした。
1950(昭和25)年は、神奈川県の高校教育においても、本校にとっても、大きな変化が生じた年である。それまで、戦時中の一時期を除いて入学志願者は全県を対象としていたが、この年から学区制が採用されたのである。本校については、横浜市内の6つの中学校(岡野、西、浦島ヶ丘、老松、神奈川、吉田)の生徒に限定して入学者選抜をおこなう一前記の中学校から公立高校に進学しようとすれば、本校しか選択肢はない一ことになった.この方式は1963(昭和38)年度に改定されるまで続く。
校歌の歌詞が現在のものに改定されたのも1950(昭和25)年である。それまでの歌詞の内容が教育勅語と天皇の治世を称えるものであり、新しい時代にそぐわないとの判断からであった.また、同年におこなわれた創立50周年記念事業の一環として建設された新体育館や、運動部部室、放送設備、開架式図書館など、施設の面でも整備が進んだ。
1950年代は東西冷戦が深刻化した時代である。わが国でも民主化の流れに歯止めをかけるいわゆる"逆コース"が懸念された。そして一方では高度成長の開始にともない、受験競争が激化し始める。そうした状況の中で、当時の生徒たちは社会のあり方や高校生活のあり方に声を発するようになる。
「平沼」の校名
男女共学を実施することにともなって校名の変更が問題になった。新しい校名を決めるにあたって、
「岡野高等学校」、「西高等学校」、「横浜高等学校」、「真澄高等学校」などの候補があがったが、結局、「横浜平沼高等学校」と決定した。これは、本校創立間もないころ、現在の相模鉄道平沼橋駅付近に省線(その後の国鉄、JR)の平沼停車場が開業し、以来、本校が「平沼の女学校」という俗称で横浜の人々に呼ばれていたことによる。なお、「平沼1という校名の採用には、生徒の強い要望と、生徒の意見を尊重する校長以下職員の配慮があった。
新校名決定の過程で印象的だったのが生徒側の動き。いくつかの校名候補が論議された後、職員会議では「横浜岡野高校」案が地名に因むということで固まった。しかし「横浜平沼高校」の名称案をもって、臨時生徒総会を開き、これに抵抗したのが当時の生徒達、説得のために、こもごも演壇に立った教師側の主張に対し、対抗の論陣を張って、頑として譲らない。結局、新校名案は、生徒側の意向を尊重して、「横浜平沼高校」とすることにきまった。着任後、一年足らずの私にとって、この時の生徒達の結束の見事さ、これを容れた校長をはじめ先輩の先生達の生徒を認める寛容さ、今でもこの時の情景は、鮮烈な記憶となって、私の心に刻まれている。(旧職員・伊藤与志和『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
男女共学
創立以来初めて迎えた男子生徒に対して、上級生の女子は批判的な目を向け、両者は反目した。し
かし、半年ほど経過するころには男女共学も軌道に乗るようになる。
机の上を歩き回るいたずら坊やもいましてね。それはもう最初はびっくりしました。でも注意をすると素直に聞く子が多かった様です。先生方もそのうち1質れ、職員室でいたずらが問題になると、あの子も根はいい子なのよとかばいあうようになりました。(旧職員・本山ムメ子、毎日新聞横浜支局編『我が母校・我が友』)
共学が始まってから最初の生徒総会は五月下旬に開かれた。(中略)「上級生は下級生に何を望み、下級生は上級生に何を望むか」というテーマで討論会をおこなったのであるが、上級生と一年男子相互間のアラ探しの応酬となり、しまいには激高した上級生の一人から「男生徒のいうことは恐カツの部類に入る怖しさです」という発言が飛び出す有様であった。(中略)この年の十一月に開かれた弁論部主催の第一回弁論大会は、熱狂的な野次や、激励の言葉が飛んで活発な弁舌合戦となった。男子弁士の多くは「女性化した男生徒よ、奮起せよ」と熱をこめて呼び掛け、男生徒は大いに発憤したものである。一方上級生は「新しい伝統を築け」「よき男女の友情を育てよう1と論陣を張った.この頃になって上級生と男生徒とのギクシャクした関係も収拾され、男女共学は「化合」の段階に入ったようである。(50期・竹中禧支郎『70周年記念誌』)
部活動の発展
運動系・文化系ともに、本校生徒は戦前から顕著な活動成果をあげてきた。ここに新たに男子を加え、その活動はさらに幅を広げていった。男子1期生入学とともに誕生した野球部は1952(昭和27)年には県選抜高校野球大会で準優勝、1955(昭和30)年創部のラグビー部は1958(昭和33)年から5年連続して関東大会出場と、「平沼に男子あり」を大きくアピールした。
ジャージもボールも練習の仕方も分からない。(中略)ただがむしゃらに突っ走ったのです。これも女子校と思われていた平沼にも男もいるのだということを何とか天下に知らせたかったし、自分がラグビー精神とやらにすっかり惚れこみ、こんなに素晴らしく楽しい、そして厳しいスポーツはラグビー以外に無いんだと信じたからです。(55期・野呂和夫『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
ほかにも、バスケットボール部、バレーボール部、バドミントン部、水泳部、体操部、卓球部、柔道部、陸上部、テニス部などが毎年のように全国総体や国体、関東大会に出場した。美術部、音楽部、新聞部、放送部も県下コンクールでそれぞれ優勝するなど、1960年代にかけて本校の部活動は大きく羽ばたいた。なお、現在も本校の特色を示す定期演奏会は1955(昭和30)年に始まっている。
平翠戦
1950年代から1980年まで続けられた名物行事に「平翠戦」がある。
1949(昭和24)年12月6日、当時横浜第二高等学校といっていた横浜翠嵐高等学校は、不審火による火災で校舎の大半を失ったため、1951(昭和26)年まで本校の8教室を使用して授業を続けることとなった。当初は男女共学実施以前であったことから、男子校の横浜第二高等学校と横浜第一女子高等学校の教室とを結ぶ廊下にはハードルが置かれ、「絶対に越えてはならぬ」ときつく言い渡されていたという。こうした縁もあり、またいちばん近い県立高等学校同士ということで1954(昭和29)年から両校の間で体育対抗戦が行なわれるようになった。
正式名称は「平沼・翠嵐体育対抗戦」、翠嵐高校では「翠平戦」と呼ばれた。
両校生徒が熱く燃えたこの対抗戦は、途中二度の中断をはさんで1980(昭和55)年まで25回にわたって続けられ、対戦成績は平沼の12勝13敗だった。
学校生活における葛藤
平沼高校として出発して数年、早くも生徒の間に広がる「無気力」、あるいは、受験体制に組み込まれる中で社会的関心が希薄になっていくことを危惧する声もあがり始めた。1954(昭和29)年度の3年生浅野基明が『花橘』第5号に「高校の進むべき道」と題した文を寄せている。
…ここで問題となるのは現在の大部分の生徒を支配している個人主義的無関心、無気力な態度であります.ある先生はこれをニヒリズムと評されました。(中略)僕は平沼高校に限らず広く現代の青年に通ずるこの無気力なニヒルな気持を打破する方向として、現実逃避に向かうよりむしろ、積極的にもっと社会に対して関心を持ち自己の生活の矛盾をはっきり認識して、社会に対し直接働きかける行動をとる実践的活動によって自己を発見して行くことが大切だと思います。この意味に於いて今度の原水爆反対決議は非常に意義のあるものだったと思います。
この年、アメリカの水爆実験で日本の漁船第五福竜丸が被爆して死者が出たことから、世界的な原水爆禁止運動が盛り上がった。当時の生徒会は生徒総会で原水爆実験に反対する決議をあげたのである。浅野はこれを生徒の間に漂う「ニヒリズム」打破の契機ととらえた。しかし、この決議は学校側の判断で許可されなかった。そこで彼は続ける。
先生方及び父兄の方々にお願いしたい。現代の青年の間に拡がっているニヒリズムは決して観念的思想的なものではありません.問題は極めて現実的な所にあるのです.ですからこれを解決するには、まず青年の不平不満をそのまま聞いて下さることが必要であります・その身近な不平不満がはじめどのような方向へ向けられようともそれが当然どちらへ向けられるべきかをはっきりしてやることです。(中略)そして社会的な現実に眼をつぶった人格というものがいかに観念的、抽象的なもので、いざ現実に対するともろくも崩れ去って行くものであることは皆さん自身が身にしみてお感じのことと思います。(下略)
《佐藤秀三郎校長の『花橘』巻頭言から》
第10代校長佐藤秀三郎先生は、ベルリンオリンピックにマラソンコーチとして遠征した経歴を持ち、神奈川県体育界の指導的立場にあった人物で、1950(昭和25)年から1959(昭和34)年まで本校校長を務められた。佐藤先生による『花橘』の巻頭言には、当時の世相が反映されているとともに、現代になお通じると思われる課題が語られていて興味深い。
従来なれてきた占領下の自己喪失の虚脱の状態から一刻も早く抜け出して、この困難な立場にむかって国民の一人一人が確かな足取りをもって進み入らねばならないのである。すなわち、自主独立の精神を堅持することが今日ほど要求されていることはない。これまでのように何事も「進駐軍の命により」とうたわねば実行されなかった情けないことでは日本の将来はいつまでたっても打開できないであろう。命がけの覚悟のもとに雄々しく立ちあがることを諸君に求めたい。〈『花橘』第2号(昭和26年12月発行)〉~対日講和条約調印(9月)・連合軍による占領からの独立を受けて~
学校教育においても、教育基本法、学校教育法といった様な新軌道が設置され、また校内に於いても生徒会、ホームルーム、クラブというような新軌道が一応敷かれているのではあるが、各人がこれらの諸軌道を巧く乗りこなすように心がけないと、草が生え、土砂をかぶって、埋没される危険性が多分にある.それには総ての人達が熱心に絶えずその上を走り廻ることが大切である.諸君はクラスというひとつの車、すなわち、クラスカーなのであって、各車輪が諸君の各々なのである。その各車輪はどれもその軌道にピッタリと含っていて、一人でもお客気分で引きずられるものがあると、軌道も傷められるし第一そのクラスカーが円滑に進まないことになる。またその軌道が悪いなら修正もし、必用に応じては更に増設してその運転を十分円滑ならしめるようつねに心がけなければならない。最近特に道徳教育がやかましくO耳ばれているようであるが新軌道はモラルの線と平行なのであって諸君の両車輪はガッチリとその上にまたがっていなければならない.これがしっかり出来ていないと脱線息子や無軌道娘が生まれるのであって、この様な道徳の再教育を必用とする人間が生まれるのは、全くその両車輪が軌道にピッタリ乗っていないためなのである.〈『花橘』第4号(昭和28年12月発行)〉~昭和25年ごろから青少年の非行化が社会問題化し、朝鮮戦争も勃発する中で道徳教育の振興が話題とされるようになった~
戦後既に十二年を経過し、国民の勤労努力によって敗戦後のEヨ本もあらゆる面に於いて驚くべき再興を見た。殊に昨年は国際連合の一員として正式に加盟を認められ世界の檜舞台に立って堂々と闊歩出来ることになってのであるが、これからの日本の生きる道はアジアの諸国をはじめ世界の国々と友好協力して行く以外にはないと思う。従って日本の将来を背負う青少年諸子は祖国愛に燃えると共に広い世界的視野と豊かなヒューマニズムに裏付けられた人間となるべく教養を身にっけなければならない。(中略)本校は戦災も受けずにすんだが、此の幸いが不幸にならぬようお互いが努力しなげればならないし又各方面の一層のご協力をお願いしなければならない。それには現在の校舎備品等を大切に愛用することだ。そんなことは極めて簡単なことだと思うが、徒らに乱暴に使用して破損したり汚損したりして平然としているものが仮にあるとすれば、斯うした不心得の者の行為が楽しかるべき学校生活をどれ程暗くし不自由なものにすることであろう。
我々の学校を我々の手によって築きあげる学校愛の情熱を一人残らず燃やしてほしい。
〈『花橘』第8号(昭和32年12月発行)〉~日本の国際連合加盟(前年12月)を受けて~