4つの「卒業生代表のことば」から
4つの「卒業生代表のことば」から
卒業式に際して卒業生代表が言葉を述べる。現在は「卒業生のことば」であり、かつては「答辞」といわれた。ここに、本校が歩んできた4つの校名のころのものを一つずつ抄録する。
いずれも、そのときどきの世相を反映しており、貴重な証言である。
●1925(大正14)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立高等女学校〉
・・・今の時代は確固とした意志を有った、そして健実な信念を有った女性を要求して居ります。私共はこの時代の理想に応ずるには余りにはなれ過ぎて居るやうに思はれてなりませぬ。今日より現実の世の中に一歩一歩踏み入るのでございます。定め難い行手、そこにはどんな苦しみが、悲しみが私共を迎へて居りませう。実生活には経験した者のみの知る苦しみと喜びがあると聞きました。その申告な苦しみと喜びを想像して、私共の心は不安に乱れるのでございます。・・・
●1945(昭和20)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立横浜第一高等女学校〉
硫黄島遂に敵手に落つの悲報に接し、一億民草憤激新たなる今日、長官閣下御臨席の下にかくも盛大なる卒業証書授与式をお挙げ下さいました事は、私共一同にとりまして身にあまる光栄でございます。(中略)
戦局苛烈化すると共に男子学徒は出陣し、私共女子学徒もなつかしい校舎を後に兵器の増産に挺身いたして参りました。諸先生方の御指導の下、皇国の重大な生産に従事して常に強く明るく学徒たる誇りを胸に勤労即教育の尊い体験をさせて戴きました。刻々と迫りつつある危機存亡の秋に当って、御慈愛深い諸先生の御膝下をはなれ、慣れ親しんだ在校生の皆様と御別れして実社会に出て行く私共の責務の重大さは、日本女性として肇国以来始めてのものでございます。
各々国家の要求に応じ与へられた分野に於て、大東亜永遠の平和を目ざし、心身を捧げて御奉公申上げ、大御心を安んじ奉り、南海の孤島に散華せられたる幾多の同胞の尊い忠霊に対しお報い致す覚悟でございます。・・
●1950(昭和25)年3月の「お別れの言葉」から
〈神奈川県立横浜第一女子高等学校〉
…顧みすれば、この六ケ年の学生生活は戦争、敗戦、終戦処理と相次ぐ混乱の中に終始致しました。我が国が未だ曾て経験しなかった国民思想の転換、世相の変化と共に、本校に於きましても女学校から高等学校へと学制の根本的な改正が行なはれ、そしてそれは私達にとりまして燃え立つ希望ではありましたけれども、又未知の困難な道でも御座いました。(中略)校内には生徒の自治活動の点におきましても自由と平和の精神とが訪れてまいりました。(中略)今私達が踏み出す社会は思想上にも経済上にも混沌として居ります。この時に当たって高等学校を卒業する私達は女性の中堅として正しい道を切り開いて行く重大な責任を持っているのでございます。私達は実社会に出る者も、家庭に入る者も又進学する者も雄々しく文化日本建設に蓮進する覚悟でございます。・・・
●1974(昭和49)年3月の「答辞」から
〈神奈川県立横浜平沼高等学校〉
・・・この平沼高校はいうまでもなく、急速に発展しっつある横浜の市街地のすぐ側にあり、近年その周囲の環境の変化には著しいものがあります。又、それと同時に誘発された、騒音の問題や、空気の汚染問題、地盤沈下の問題等は、平沼高校に、より大きな影響として現れております。たとえば、春から夏にかけて道路ぞいのクラスのひどい騒音、体育館の床の極端なゆがみ、壁のひびわれ、数え上げればかなり多くの現象が上げられます。(中略)三無主義、更に四無主義という声が聞かれるようになってから、かなりの時間が経ちました。しかし、一人一人がそれを厳然たる事実としてとらえているのでしょうか。私達一人ひとりは何に対しても責任を持たず、やる気を起こさず、そして感動するという事がないのでしょうか。又何に対しても関心を示さないのでしょうか。・・・