焦土からの出発
焦土からの出発
1945(昭和20)年8月15日、終戦の詔勅が下り、15年にわたった戦争に終止符が打たれる。授業は10月1日に再開されるが、校舎は威容を誇る外観からは想像できないほど荒れ果てていた。
大空襲で大倉山にあった校舎を失った高木女子商業学校に4教室を貸与しての出発だった。疎開していた生徒たちも徐々に戻り始め、1教室に50人以上がひしめきあい、教科書も満足に揃わず、学習進度もまちまちな中で教育活動が再開される。まがりなりにも学校らしい落ち着きが戻ったのは翌年の春頃だった。
そんな中で、従来の国家主義・軍国主義教育を一掃するために、1945(昭和20)年10月から翌年春にかけて、連合国軍総司令部(GHQ)からの指令や県の通達が続いた。教練の禁止、神道教育の排除、修身・国史・地理の授業停止や教科書の回収などである。一方で、戦時中敵国語として禁止されていた英語の授業が再開される。
また、1947(昭和22)年には、民主主義教育の柱となる教育基本法が制定された。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」(教育基本法)がうたわれ、日本の教育は一大転換期を迎えた。さらに、同年に行われた学制改革によって、男女平等原則に基づく共学制、小・中学校の義務教育化、新制高校の創設が掲げられた。
本校でも、戦争から解放された安堵感と、昨日までの価値観が崩れ去っていく戸惑いの中で、「民主主義」を旗頭に掲げた新しい教育が手探りで始まった。
占領軍の指導で生徒による自治組織「生徒自治会」(後の生徒会)が組織されたのも、教育現場に「民主主義」を根付かせることを意図してのことである。様々な活動を通じて民主主義の浸透が図られた。
保護者の組織も「母の会」から「家庭会」と改められた。「教員と親の連合」というアメリカ流の考え方に従って新しく組織し直すことが指導された結果である。これが後の「PTA=Parent
and Teacher Association」になる。
学制改革にともなって本校は、1948(昭和23)年に新制高等学校となり、「神奈川県立横浜第一女子高等学校」と改称した。しかし、この校名はわずか2年間で姿を消した。1950(昭和25)年、神奈lll県は高等学校で男女共学を実施することになるからである。
1948(昭和23)年からは通信教育部(後の通信制課程)が、翌49年には県立横浜幼稚園が校内に併置(1990年3月に閉園)され、学校は新たな陣容を整えた。
価値観の転換一民主教育の開始
敗戦から一ヶ月余りたった1945年10月1日、施設は荒れ果て、教科書も満足にそろわないという環境
の中で、本校は再建の第一歩を踏み出した。
煤けた教室には、昔の緊張が無くなって居た。生徒もぼんやりして居たが、先生方も新しき変化に、明らかにとまどって居られた。第一、教科書がない。戦時中配給された新聞紙状の教科書を、頁数に合せて切り放し閉じ合せた薄ぺらな教科書にある国家主義的な表現を墨で塗り潰しながら使った教科書もあったが、それすら空襲の中で失くして了った友達が多かった。一部の先生方は、黒板に教えたい文章や数式等を書かれ、それをノートに写し取って教科書としている教科もあった。課題を出されて、自分たちでそれを調べ発表する形式を採られた場合もあった。何もかもが混沌として、ざわざわしている状態に、私達は絶望していた。絶望しながら、一体どうして欲しいのか、自分達自身がよく判っていなかった。(47期・大澤紗智『創立九十周年、新校舎落成記念誌』)
GHQは軍国主義教育の一掃と教育民主化推進のために次々と指示を下した。本校にもGHQの担当者が連日のように来校し厳しい点検をおこなった.神奈川一中(現希望ヶ丘高等学校)では、GHQが発した「教育に関する指令」を再三の指導にもかかわらず掲示しなかったとのことで校長が罷免されている。戦時中に軍国主義教育を鼓舞した教員も排除された。幸い本校には、その該当者はいなかったが、しばらく動揺と混乱の日々が続いた。
生徒は戦時中の動員を含めた重苦しい生活から解放されて自由の空気を存分に吸っていましたが、先生は軍国主義教育の責任を取らされて辞めさせるられるのではないかとビクビクしていたようです。(45期・深尾恭子『創立100周年記念誌』同窓会編)
生徒や職員たちは急激な価値観の変化に戸惑いながらもまもなく活力を取り戻していく。特に男女平等の実現は生徒たちに新たな希望をもたらした。
新学生の思考で何よりも嬉しかったのは教育における男女差別の撤廃である。終戦前までは男子より低水準に抑えられていた教科(数学等)についても同じ教科書を使えることになり、国公立大学の門戸も開かれたのである。私たちの勉学意欲は旺盛で進学率も高かったと思う。しかし、女性の進出に対する社会の壁はまだ厚く、インフレ時代でもあった経済的理由や親の反対で大学進学を断念した友人も多かったのである。(47期内田登喜子『創立100周年記念誌』同窓会編)
教育改革の一環としてGHQは生徒の自治活動も重視し、その実現を推進した。生徒の自治組織である「生徒自治会」の結成、各校代表生徒で構成する「模擬市会」の開催などである。また、教科指導内容にも従来とまったく異なる発想の取り組みを指示した。「ホームプロジェクト」や「コア・カリキュラム」の試行がその一例である。
アメリカの神奈川県駐在の係官が学校へやってきて、「日本の学校にはスチュデントガバメントはあるか(中略)生徒の力のつよいものだ」といいます。これが、現在の高等学校に生徒会とよばれて、特別教育活動の中に位置づけられているものの発祥ですが、そのころは、神奈川県では、生徒自治会と訳されて、県下の各中学校、女学校に組織され、その連合会をもって行事をするという段階にまで発展しました。(中略)ではこの組織が一体どんなことをしたのかといいますと、一番印象にのこっているのは模擬市会というのです。このときは男子系の学校の生徒たちも参加して、市長役、議長役その他をえらんだわけですが、おもしろいことには開票の結果はえらどころの役はみな平沼の生徒が占め
てしまいます。頭がよくて人おじせず、発言がテキパキしているせいでしょうか。(旧職員・松本喜美
子『70周年記念誌』)
ホームプロジェクト・コアカリキュラム
民主主義教育の具体的実践のひとつとしておこなわれたのが、現在でも家庭科でおこなわれている「ホームプロジェクト」である。自己の日常生活の中の課題を科学的に解決していこうとする学習活動で、民主的・合理的・文化的家庭生活の担い手を育てる目的で、新教育の一環として取り入れられたものである。
現在の「総合的学習」に近いことも取り入れられた。経験に基づく問題解決学習は「コアカリキュラム」と呼ばれ、当時小学校を中心に研究が盛んだった。本校は高等学校における実践の研究校に選ばれ、当時の2年3組で「アメリカ文化研究」をコア(核)とするカリキュラムを作り、ほとんどの教科の授業をその研究発表・質疑応答にあてた。受験を控えた生徒たちにとっては、明らかに通常とは異なる授業形態に戸惑いがあった。やがて不満を募らせた生徒たちは、この取り組みを椰楡する川柳や狂歌を黒板に落書きする「反乱」を起こした。