戦時下の第一高女

戦時下の第一高女

1931(昭和6)年の満州事変によって日本の中国への侵略が本格化し、次第に戦時色が強まっていく.すでに男子が通う中学校では、1925(大正14)年から現役将校が配属されて軍事教練が実施されていた。
1937(昭和12)年に始まった日中戦争は4年後には太平洋戦争へと拡大する。このころには戦争の影響が本校にも直接に及ぶことになる。
様々な学校行事に軍事色が加えられただけでなく、全校をあげて戦勝祈願のための神社参拝や市内行列行進をしばしばおこなったり、防空演習、防毒マスク作りなども始まった.また、本校教員の中から出征し、戦死する者も出るようになった。
それまで特徴ある学校行事は、教職員と生徒で構成された校友会という組織を通じて運営されたきた。戦時下、この校友会は「皇国民ノ錬成」を目的とする報国団に再編され、学校全体が軍隊を模したものとなった。この中で、先進的な取り組みであった学校キャンプもスキーも、さらに修学旅行も廃止されてしまう。伝統ある『花橘』も1O年間にわたっての休刊を余儀なくされる。
戦争の長期化は学校の授業内容にも影響をもたらした.科目名に「修練」があらわれ、英語は敵国語であるとして必修科目から除外される。
当初、夏休みなどに校内で実施された集団勤労作業は、やがて授業時間を割いて農家の手伝いに出かけるようになる。さらに、工場や軍事施設に駆り出される勤労動員へと拡大・強化されていく。動員された生徒たちは、毎日、学校へではなく、動員先に通うのである。なかには、親元を離れて動員先の不衛生な宿舎に寝泊まりし、苛酷な労働に従事した者もあった。
校庭には工場施設が搬入され、一画には食糧不足を反映して農園が作られた。
神奈川県には多くの軍事施設があったために、県内だけでなく他県からも多くの中学校・高等女学校生徒が勤労動員に駆り出されていた。そして、彼らの中から百名を超える者が動員先で犠牲になっている.幸い本校生徒から犠牲者は出なかったが、まさに死と隣り合わせの毎日を強いられたのである。なお、中学校では、卒業を前にして軍関係の諸学校に進む者もあり、中には、特攻隊員としての訓練を受けるべく学校を後にした者もあった。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲では、本校周辺も焼き払われた。このとき鉄筋校舎の焼失を免れた本校は、臨時の救護病院にあてられて多数の負傷者を収容した。
この年、勤労動員のために2年生以上はほとんど登校していなかった中、わずかに1年生が授業を受けていたが、大空襲後は授業はほとんどおこなわれず、8月の敗戦を迎えることとなる。

日中戦争と勤労作業の開始

最も強く印象に残って居るものは昭和十三年私達が五年の時の七月二十一日から二十七日までの一週間行はれた勤労作業の思ひ出である。少し大袈裟かも知れぬが自己と云ふ色彩の最も少ない数日であった。
(36期・山上京子『花橘』紀元二千六百年奉祝、創立四十周年記念号)


太平洋戦争と勤労動員の開始

1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まるころからは、労働力不足を補うために満/4歳以上の男女生徒も工場や軍事施設に働労動員」されるようになる。本校では1942(昭和17)年2月に5年生が横須賀の海軍施設に動員されたのを皮切りに、次々と動員された。

(1942年)四月十八日には、米国航空機の本土初空襲を経験した。時ならぬ空襲警報に、授業も途中でなげだし、雨天体操場に集合、はじめて聞く高射砲の音に菖をすくめて、お友達と抱き合った記憶はいまだになまなましい。二年生時代には、もうすでに、動員命令によって時々工場にかり出されるような状態になっていた。さらに三年に進んで間もなくから、四年生の夏、終戦を迎えるまでの間、いわゆる勤労奉仕にあけくれた。今の、よく学び、よく遊ぶ高校生の方々の生活からは、とても想像もできないような毎日である。遊ぶことはおろか、学ぶ自由さえ、奪われてしまったわけであった。
(43期・小村節子『創立百周年記念誌』同窓会編)

2022年06月17日