高校紛争の余波

高校紛争の余波

1969(昭和44)年、ベトナム戦争に対する反戦運動や社会体制・管理教育に反発する潮流は全国の高校にも及んだ。県内では、川崎高校、鶴見高校、希望ヶ丘高校、平塚江南高校などで生徒たちが校舎の一部を封鎖した。横浜翠嵐高校でも生徒が反戦や卒業式粉砕を掲げて市内をデモ行進した。本校には他校のような紛争は起こらなかったが、改革の波はいろいろなところにあらわれた。


この年の11月、生徒会は生徒集会を開き、以下の6点からなる質問書を学校に提出した。
①定期試験の意義について(目的・評価との関係・出題方法・全廃論と臨時試験)
②通知簿の意義について(目的・記載事項・全人的評価の表し方)
③評価の意義について(目的・方法・評価の不平等・特に相対評価と絶対評価)
④内職の是非について(先生、生徒の姿勢科目選択制の完備との関係)
⑤校則(生徒心得・服装規定)についての方針について
⑥生徒の学習意欲、先生の指導方法、先生と生徒の交流について

これについて生徒会執行部は校長と懇談会を持ち、さらに公開討論会を開いている。学校は、この年から翌年にかけて、立て続けに学校改革案を発表していった。卒業式は簡略化され、「君が代」と県教委や県議の祝辞は除き、送辞・答辞の名称を在校生代表の言葉・卒業生代表の言葉に変更した。服装規定も改訂し、学生帽の着用を自由化した。それまでの級長・副級長を学級委員に変更し、任命制をやめた。さらに学級委員を補佐しながらクラス・LHR運営にあたるLHR委員が新設された。
次項で触れる、1970(昭和45)年度から教育課程においてコース制を廃止し、必修と生徒の希望による選択の二本立てとなったことも改革の一環である。
1971(昭和46)年には「学校内における掲示」問題が起こっている。生徒会が掲示を承認した、映画「水俣」・「第2回神奈川高校生集会」・「沖縄返還協定反対」の3種のポスターが学校側によってはがされたのである。生徒会は職員との討論会を開き、学校側の「掲示に対する態度」を職員会議で決めるように要求した。結局、いずれのポスターの掲示も認められることになった。この件に関し、当時の生徒会副会長は『花橘』第22号に次のように記す。

学校側の決定により、これらのポスターはどれも掲示できるようになり、無断で一方的にはがされる
ことはなくなりました。又、そうでなくてはなりません。(中略)ともあれ、『生徒の意志が無視される状態』を生徒会と学校側とで話し合い、本来あるべき姿に正されたというのは、ある意昧では「進歩」と言えるかもしれません。これからも、生徒会と学校側との意見が対立した時には、生徒全体の話し合いを通じて、より良い道を追求して行くべきだと思います。


全生徒が生徒会活動に熱心であったのでも、生徒会役員のもとに一丸となって行動したわけでもない。1960年代から70年代にかけて、生徒会役員はその活動の不活発さを指摘し、高校生の間に広がる「三無主義」(無気力・無関心・無責任)を問題にしている。しかし、そこにはその打破を願う問題提起が絶えずなされていた。

平高生の、いわゆる「三無主義」をなくすためには(中略)、さしあたって改善すべき事として、次の二点があげられる。生徒の「やりたいこと」と結びつく生徒会活動を行う。授業を、さらに深く広い一教科書の筋を追っていく、といった様な授業とは正反対の一ものに改善する。これらの改善だけでも、生徒会活動の活発化や、授業を少しでも有意義な楽しいものにしていく、ということがある程度は実現できる。しかし、現在の受験体制がある限り、その重圧による平高生の三無主義化を完全に防ぐことは不可能である。(中略)高校生は「未来」である。その高校生が、自分の成長にとって何んの意昧もない大荷物を背おって、三年間を歩き続けなければならない現状を、できるだけ早くなくしていく必要がある。(1971年度後期生徒会長・佐々木弘美『花橘』第22号)

教育課程の変遷

新制高校が発足したころの教育課程は大幅な科目選択制と単位制の採用を中心としていたが、1950年代半ばから始まった高度経済成長は高校の教育課程にも変化をもたらした。大学進学を中心とした「進路指導の強化」と「学習指導の徹底」が課題とされるようになるのである。
本校では、1956(昭和31)年度からA~Dの4コース制をとっている。Aは文科系、B・Cは理科系、Dは家庭科系である。このころはHRは男女別編成で、授業も能力別に編成されていた。4コースは1959(昭和34)年度にA(文系)、B(理系)の2コースに再編された。
一このころから大学受験のスケジュールに合わせた「学校行事の適正化」も進められた。それまで3年次に実施されていた修学旅行が2年次に移されたり、文化祭を隔年、あるいは3年に一度の実施としたことなどである。
文系・理系のコース制は、L・Sと呼称を変えたり、国公立、私立、芸術・家庭科などに細分化されながら1969(昭和44)年まで続いた。
1969(昭和44)年秋、多くの高校で教育課程の変更がおこなわれた。基本はコース制の廃止と生徒の希望による選択制の採用、グレード別レッスンの廃止であった。本校も1970(昭和45)年度からコース制を廃止して、必修・選択の二本立てとなった。その後は一時期を除いて、2年までは原則的に共通科目を履修して基礎学力を充実し、3年次は逆にできる限り選択科目を増やすという教育課程が定着した。
2002(平成14)年度から学校5日制が導入されると、授業時間の確保が切実な課題となった。本校では従来の3学期制から2学期制への転換で対応した。また、2003(平成15)年度入学生からは2年次において1~皿型の中から一つを選択し、3年次においては自由選択制を基本とする方式に改められた。

高校進学率の上昇

高度経済成長にともなって、人口の都市集中が顕著となった。また、戦後のベビーブームの到来もあって、高校進学率が上昇していった。神奈川県における高校進学率は、1962(昭和37)年に70%を超え、1965(昭和40)年に80%、1970(昭和45)年には90%を超えることになる。
新制高校となってから神奈Jll県は全県19学区、横浜市内は1高校1学区の小学区制であったが、高校進学率の上昇に対応すべく、1963(昭和38)年、全県9学区、横浜市内は北・中・南3学区へと変更された。このうち、横浜中部学区(現在の横浜中部学区と西部学区からなる)は本校・希望ヶ丘と市立の桜丘・戸塚の4高校であった。やがて本校は1965(昭和40)年に、各学年10学級、全校生徒1617名という史上最大の在籍数となり、1学級の生徒数が50名を超える状態がうまれた。その後の県立高等学校の増加を横浜中部学区についてみると、下表の通りである。

 

1973(昭和48)年からは「百校計画」が開始され、高校の新設が相次いだ。この間、全県で7割以上の高校が1学年12学級、全校36学級を経験している(本校は最大でも30学級)。
当初4校でスタートした横浜中部学区は、1981(昭和56)年、横浜中部学区9校(その後、上矢部が新設されて10校)と横浜西部学区9校に2分された(柏陽はこのとき横浜南部学区に編入)。
現在、神奈川県では少子化にともなう高校進学人口の減少と「特色ある高校づくり」の観点から、高校の統廃合と新しいタイプの高校設置が始まっている。

2022年07月05日