創立百周年記念事業を振り返って

「創立百周年記念事業を振り返って」

校内百周年総務部主任 鳥本鉄心

はじめに
 校内での百周年への取り組みは平成7年6月の「創立百周年記念事業に関する相談会」を管理職、真澄会、PTAによって開かれたことによって始まる。同じ6月、「創立百周年記念行事実行委員会」が立ち上がり、PTA会長を会長に、校長、教頭、真澄会会長を副会長に確定し、同時に教頭を委員長とした「校内企画委員会」が発足した。
 「校内企画委員会」は実質的な組織作り、実施時期、内容等を審議するため平成7年から8年にかけて6回ばかり開かれた。
 平成8年3月に職員へ内容、時期についての要望を訊くためざっくりとしたアンケートが実施された。「1円もお金をかけるな」とか「生徒のためこぢんまりしたものを」といったネガティブな意見も散見された。
 6月には「第1回校内実行委員会」が発足、委員長には校長、副委員長には教頭、その下に四部、つまり、総務部、式典部、行事部、編集部が位置し、連絡調整は総務部主任が取るという組織が成立した。
 早い話が、平成4年に実施した「九十周年式典」を踏襲したもので、「創立百周年記念行事実行委員会」がPTA会長を会長に設定したのもそれに倣ったものである。
 男子卒業生が加わる成熟した共学の「真澄会」の存在を学校側はまだ認識していなかったということであり、組織図が修正されぬまま、学校と真澄会との「信頼関係」の深化が進み、自ずと実質的に双方の連絡を軸に事業が展開され、その後の運営に些かの「ねじれ現象」を引き起こすことにもなる。

基本コンセプトの確立
希望ヶ丘高校の百周年が先例としてあり、当初は漠然とモデルとしてそれをイメージしていた。式典会場として「国立大ホール」を見学し、その高額な会場費に見学者は愕然とした。わが平沼高校は平成4年に「九十周年式典」を「校舎落成記念式典・祝賀会」を兼ねて実施しており、百周年に向けての年間積立を平成5年の4月から開始したばかりであり、予算的には深刻な事態にあったのである。百周年に向けての真澄会の予算への展望も未確定の時期でもあった。
 しかしながら、学校側、真澄会側とも「先例」にそれほどのインパクトを覚えず、「もっと創造的なものを」という思いが強くあり、MMホールに60期生の間瀬勝一氏を訪ねた折、式典へのイメージは一気にスパークした。当時の校長鈴木眞人氏、教頭58期生中村英信氏、総務部主任鳥本鉄心、真澄会百周年実行委員長50期永森邦雄氏などが一様に「これだ!」と確信した。内容と予算。逆転の発想である。
 「音楽式典」のコンサートはその後、高橋仁氏が率いる学校の式典部と真澄会イベント部会の50期生吉田孝古麿氏、中島陽一氏を中心とした双方の会合が重ねられ、55期生の指揮者手塚幸紀氏も加わり唯一無二の式典としてその全容が確定された。生徒と卒業生が同じステージで一体となる基本コンセプトは他の百周年事業でも同じように共有された。
どのセクションでも、
先輩は後輩(現役の高校生)を育てること
先輩は無報酬のボランティア参加とすること
が貫かれたことが平沼百周年の見事さであり、清潔さであった。
学校主催の百周年事業
・コンクールI(キャッチコピー) 平成11年9月
・コンクールII(シンボルマーク・ポスター) 平成12年4月
・先輩セミナー 平成12年6月~平成13年3月
・藤棚、ベランダ庭園完成式 平成12年9月
・百周年平沼祭 平成12年9月
・記念美術展、歴史資料展 平成12年10月
・記念誌発行(学校編) 平成12年10月
・記念音楽式典 平成12年10月
・記念碑除幕式 平成12年11月
・新校旗贈呈式 平成13年1月
以上であるが、真澄会の助力なしにはそもそも成立しないものばかりである。この中から特筆すべきものを数点選び、あらためて解説を加えたい。

「シンボルマーク・記念碑」
 シンボルマークは93期生の長野奈生さんの制作によるものだ。マークは公募されたものの中から実行委員会が選定した。羽と百のダブルイメージは秀逸である。記念碑はもとより、百周年のすべての事業にこのマークが使用された。記念碑の石の選考の際、長野さんは石の生産地(中国)に直接出向こうかという熱の入れようであった。百周年の「熱い心」そのものであった。企業デザイナーとしての現在の活躍は旧知の事実であろう。

「竹腰美代子の体操教室」
 百周年の平沼祭はさまざまな点で特別であった。当日の体育館では45期生の体操指導者、竹腰美代子さんが卒業生、生徒の前で体操教室を行った。真澄会「スポーツ部会」を取りまとめていた氏は後に実施される「卒業生運動会」でもイニシアティブを発揮されていたが、このとき氏は不治の病と闘いつつあった。百周年の祝賀会会場で辛そうにソファーに横たわり、それでも「笑顔」。百周年後しばらくして他界されたが、その「笑顔」は平沼百年に燦然と輝くものである。

「先輩セミナー」
 平成12年10月5日の神奈川新聞には「平沼ひと物語」という特集記事が載っている。厳密には、ひとが「ひと」となっている。そこに「先輩セミナー」がなぜ始まったかが詳細に描かれている。
「発端は百周年生徒委員会が発行するミニ新聞「美助人(ビスケット)」の編集者たちが先輩にインタビューし記事化するうちにもっと広く先輩の話を生徒全体に知ってもらった方が良いと言い出したことである」。新聞記事はこう続く「同窓会資料や生徒の希望を基に会ってみたい先輩40人をピックアップして手紙を出したんです」と話すのは英語科教員の鳥本鉄心さん。美助人の生みの親である」。
「先輩セミナー」は平沼百周年を象徴するイベントであった。つまり、先輩から後輩へ、無報酬のボランティアでという気品に満ちあふれたコンセプトの申し子のようなものである。
この「同窓会の資料」とは後に自らも「先輩セミナー」に参加する真澄会「歴史資料部会」を率いた51期生家里泰寛氏の手になるものである。「記念誌」の発行はもとより、数多くの平沼OB、OGの尽力で今なお県下に輝く「歴史資料展示室」の礎になる作業が氏によってなされたのである。百周年後、氏は程なくして急逝した。「校史教育」はそうした平沼の「ひと」によってもたらされたものである。

「記念音楽式典」
平成13年3月発行の「花橘51号」に「百周年記念行事を振り返る」という特集記事がある。当時の教頭、福田豊恵氏が「実況中継」している。
「定刻の11時に……ブラスバンド部のチューバ、トランペットとオーボエ奏者9名が高らかにオープニングファンファーレを演奏する。荘厳な百周年記念音楽式典の開幕である。作曲に進んだ卒業生がこの日のために作ってくれたオリジナルファンファーレは1分を超える。」
この式典の実現に向けて、関係者はどれほどの苦労を重ねてきたであろう。打ち合わせの回数は何十回、いや百回を超えていたであろう。その重みをしっかり支えた92期生岸普子氏の手になるファンファーレがMMホールに高らかに鳴った。高らかなファンファーレは平沼の高らかな誇りそのものである。
司会は70期生、TBSの吉川美代子氏と当時の現役3年生、坂本卓氏。指揮者は神奈フィル常任指揮者55期生、手塚幸紀氏。ステージ上のわんさかの生徒、卒業生。そして会場のわんさかの卒業生、そして関係者。
校長の松村榮子氏がわずか5分の制約されたスピーチを感動的に結ぶ。「それではお届けします。平沼百年の熱い心です。どうぞお受け取り下さい。」式典に心血を注いだすべての人たちを代表する見事なスピーチであった。
そして式典は55期生戸上靖彦氏の手になるエンディングファンファーレとともにそこに居合わせた人全員に奇跡の瞬間として永遠に記憶されたのだ。

「終わりに」
百周年校内実行委員会を引き受けた時、当時の鈴木眞人校長は言った。「誰が一番想いがあるか、それを忘れずに仕事をしてくれ」と。学校側の百周年の実質的なまとめ役であった私は終始それを忘れずに百周年事業に当たった。
平沼高校の百周年記念事業は、よくある他校の周年行事とは基本的に性格が異なる。その年が来たから受け身的に行事をこなしたのではなく、平沼の百周年があまりに素晴らしいから、参加するに値するから懸命にその実現に向け頑張ったのである。学校と卒業生一体になって臨んだ百周年であった。居合わせた生徒たちは実に幸せであった。
成功の原動力は何と言っても50期生を始めとする共学第1期生の男子たちが定年を迎え、その豊かな経験を引き連れ、百周年に企画の段階から参画したことである。50期生の実行委員長、永森邦雄氏が先陣を切り、52期生広報部長山口精一氏らが精力的に加わったことに平沼百周年の鮮やかな展開の鍵がある。
前述の神奈川新聞「平沼ひと物語」の最終回は平成12年10月28日、つまり、百周年記念音楽式典当日に掲載されたが、その記事は、繰り広げられる記念行事は同窓3万1千人が集う「異業種交流の場」。新世紀の一歩が始まる、と結ばれている。卒業生も教職員も「異業種交流」の豊潤な成果を「生徒」に向かって届けたのである。学校にとって、とてつもない「教育力」である。
もともと女子の伝統と実力には神奈川県随一の平沼高校であるから、その男女の優れたハーモニーは他の追随を許さぬものがある。
百周年をきっかけに復活したものがもう一つある。ファウストの復活である。49期生、大庫澄江氏らの協力を得て、小ホールで現役の生徒たちが舞った。あっという間の復活劇であった。
今後は教職員が積極的な媒体となってさらに百十周年以降になお一層の輝きを平沼高校にもたらせていただきたいと切に願うばかりである。
最後に、ともに百周年を支えた方々の中には、百周年後に旅立たれた方々もある。心よりご冥福を祈るとともに、あらためて深く感謝を申し上げたい。